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【なんだこの人生 日曜しか生きた心地がしない社畜OLの日常】労働に打ちひしがれ虚無な日々に絶望する新米社会人の苦悩 評価:2点【橋本ゆの】

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なんだこの人生
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しかし、事実として「自分らしく」とか「ほどよい働き方」ばかりで仕事上の成果が出るものではないでしょう。

ある程度の地道な努力を通じてしか結果は出ないものです。

そして、殆どの人にとって労働はせざるを得ないものである以上、労働モチベーションが低い(低くならざるを得ない)人間ばかりだという社会の状況は、社会経済にとっても一人一人の人生にとっても不幸なことだと感じています。

あまりにもモチベーションを見出すことができない業務に対して、とてつもない時間量を捧げなければならない人生は不幸以外の何物でもない。

その感覚は本書でも度々示唆されています。

そんな若者たちの感覚を前提とするとき、これはさらに異端の考え方なのかもしれませんが、社会として新式の「企業戦士」を養成することが必須であると思います。

現代の若者を動機づけるという点では、熱中できる感、社会の役に立っている感が重要だと言われております。

クリエイティブな職業やベンチャー企業での勤務が持て囃されるのもそんな傾向が反映されているのでしょう。

もちろん、クリエイティブな職業に従事していたり、勢いのあるベンチャー企業で勤務している人々がそれなりのやりがい(とそれを凌駕する凄まじい苦労)を感じているのは事実でしょう。

だからといって、社会の大多数の人間がそういった職業に就いたり、そういった会社に就職する未来が現実的とはいえません。

大多数の人間の幸福を考えるにあたっては、クリエイティブでもなければベンチャー的でもない、ありふれた職業やありふれた会社の中で人々がやりがいや幸福を感じられるかが否応なしに重要となってきます。

そこで、普通の企業における様々な業務を観察してみますと「コミュ力が全て」のような職種だけでなく、専門性や専門技能が強く求められる職種も多数存在することが確認できます。

会計や法務、統計やプログラミング、語学はもちろんのこと、建築現場や福祉・医療・保育の現場で働くということもまた専門技能を強く求められることでしょう。

そういった、(社内調整力やコミ/飲みニュケーション能力や"人間力"などではなく)特定の技能を活かして、それに没頭し熱中して何かを創り上げる、あるいは成し遂げる、それで儲けるということに対して、現代の若者は熱い眼差しを向けてくれるのではないかと私は期待しています。

次に、現行の教育課程(小学校からOJTまでもを含めて)を観察しますと、能力を身に着ける順番として、まず全般的な人間力(集団行動やコミュニケーション能力、一定程度の従順さなど)や抽象的思考力、教養的な何かを植え付けるところから始め、その後にそれぞれの職場で使う専門技能を身に着けてもらうという形になっています。

社会の在り方を変える手段として、この順番を逆転させてみるのはどうでしょうか。

つまり、"人間力"や"教養"の教授は必要最低限に抑えつつ、専門技能の教育を優先的に行い、("人間力"や"教養"が相当程度重視される現行の選抜形式とは逆に)専門技能を重視した選抜を通じて就職し、そこから"人間力"や"教養"を必要な分だけ身に着けていくわけです。

"人間力"や"教養"の高さを潜在能力とみなし、これから専門技能を高めていってくれそうな人材を選ぶという方式ではなく、専門技能が高い一群の中から、専門技能はいい勝負だなと思ったときに"人間力"や"教養"を重視する程度の選抜にするわけです。

(「するわけです」と書きましたが、学校における教育課程が大きく変われば人材プールの変化に合わせて企業側も採用方針を変えざるをえないでしょう。もしくは、採用側が何かのきっかけで採用方針を激変させ、それを梃子にして学校側が変わるかもしれません)

つまり、まず何らかの専門技能を先に身に着け、その専門技能を根拠に職を得て、専門技能を通じて何かを成し遂げることにやりがいを見出す機会を確保し、自分自身の軸となる専門性を知識量・実務経験ともに充実させる。

そこから、その他の事象("人間力"や"教養"など)を学んでいく。

つまり、自分自身が熱心に物事に取り組める場所、熱中できる場所、積極的に「企業戦士」できる場所を早くに見つけてあげる方が、現代の若者を「企業戦士」として社会経済は活用することができ、また、若者自身も少なからず存在する労働時間という代物に最低限の意義を見出す可能性が高まるのではないでしょうか。

具体的には、小中学校の教育課程から集団行動力やコミュニケーション能力、教養養成のための授業や行事を取り去り、高校も普通科を廃止して全て何らかの専門技能養成を優先するような課程に再編します。

小中学校はいまよりも少なくとも1年は早く卒業できるイメージで、これによって高校教育を1年延長するか、1年早く社会に出るようにします。

あるいは、5年制の高等専門学校、いわゆる「高専」の設立をより幅広い分野で認めていくのも良いかもしれません。

(普通科を「廃止」は言い過ぎかもしれませんが、いまの工業科や商業科と同程度かさらに低い比率に抑えるくらいが目安かもしれません。「普通科」的な勉強を熱望する子供が敷かれたレールから外れる形で敢えて行くような学科にするイメージです)

もちろん、あらゆる仕事で必要とされる能力は玉虫色という側面もあり、「人間力や教養」と「専門技能」のどちらかが極端に欠けていてはそもそも業務は成り立たたない、ということを重々承知しているつもりではあります。

しかし、「主に"人間力"や"教養"で難局を突破しろ」という声が大きい社会と「"人間力"や"教養"を最重要能力として教授しよう」とする学校教育の組み合わせによって生み出される、"人間力”と"教養"に偏った人材プールという状況が、人材プールに存在する一人一人の人間を幸福にしているとはとても思えないのです。

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