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「存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」高村友也 評価:2点|自己が永遠に消滅するという、その現象への向き合い方、向き合えなさ【生き方】

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存在消滅 死の恐怖をめぐる哲学エッセイ
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東大の哲学科出身という出自を持ちながら(持つからこそ?)、田舎の雑木林を購入し、自作の小屋を建てて自給自足生活を送っている(送っていた?)高村友也さんという方が「死」について考えたことを著したエッセイ本です。

高村さん自身は何年も前から自作小屋暮らしブロガー/YouTuberして界隈では注目を集めておられた方で、小屋暮らしについての書籍も出版されています。

そんな高村さんを幼少期から悩ませてきたのが「死」という現象への恐怖。

自分時間が永遠に消滅してしまうという現象であり、避けることはできずいつかは必ず訪れるこの現象。

やや内向的で思索的な人であれば、ふとした瞬間に考えたこともある「死」についての想いが淡々と綴られており、その中から自分自身の「生」についてのヒントが得られるかもしれない、という書籍になっております。

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目次

第一章 危機
第二章 永遠の無
第三章 世界の神秘
第四章 問いの在り処
第五章 他人と孤独
第六章 対処療法としての逃避と忘却
第七章 執着と諦観、信頼と不信
第八章 文明
第九章 自己矛盾
第十章 旅の動機
第十一章 宗教
第十二章 人生の意味
第十三章 小屋暮らし、再び

感想

小屋暮らしを始めてから一度都会のアパート生活に戻り、その後、放浪の旅に出たあと再び小屋生活に戻った著者の人生の経歴を辿りつつ、そのときどき(回想含む)で著者が「死」について考えたことを綴るという形式の書籍です。

幼少期に「自分の存在が永遠に無くなる」という「死」の概念を知って以来、その恐怖から逃れられないという高村さん。

彼が恐れているのは純粋な「存在消滅」であることから、短い生を一生懸命に生きよう、といった類のメッセージは高村さんに対してそのメッセージ発信者への不信を募らせる要因にしかなりません。

この点で面白いのは、高村さんは世間から見れば生きているのか死んでいるのか分からないような生活を送っているにも関わらず、誰よりも「生」の消滅である「死」を恐れており、「生」への執着が強いということ。

存在すること、生きていること自体が説明のつかない「神秘」であると認識し、他者と心が通じ合うような人生を送ってきたわけでもないが「他者」の存在を完全に忘れられるほど「孤独」にもなりきれない高村さん。

旅や宗教といったありきたりな手段も高村さんの悩みを解決させることはできません。

(宗教に救われない理由が「真でないものを真だと信じることができないから」というのが面白いですね)

そんな高村さんがここ数年間で「死」の恐怖を忘れられた瞬間が二回あったそうです。

一回目は、駐輪場に並ぶ自転車が将棋倒しになりかけたとき、自転車を反射的に腕で抑えて将棋倒しを阻止した瞬間。

二回目は、電車内で隣人のスーツケースが意図せず動き出したとき咄嗟に手を出してそれを阻止した瞬間。

どちらも条件反射的に身体が動いたとき、というわけです。

この高村さんですら、その瞬間の「熱中」には「死」の恐怖を忘れられる。

そう考えたとき、やはり人生の充実、「死」の恐怖を忘れられるような状態の一つは「熱中」なのだなと感じました。

高村さんは他者よりも「死」の観念が頭の中に占める割合が強すぎてなかなか他の事に熱中できないようですが、やはり凡人のレベルでも、手持ち無沙汰になると(あるいはブラック労働漬けになっていると)、「このまま何もせずに人生が終わって消滅してしまうのかな」と考えてしまいます。

その意味で、人生というものは高村さんに限らず「死」への恐怖を振り払うための努力の連続だと言えるでしょう。

もう一つ、高村さんが宗教に救われない理由が「真でないものを真だと信じることができないから」であることは前述の通りですが、これも逆説的に、人間がいつ「死」の恐怖を忘れられていられるかというと、それが幻想的な希望を信じていられる瞬間だということを示していると思います。

このまま努力を続ければ○○大学に合格して薔薇色の人生が待っているだとか、プロの○○になって成功できるとか、いまの彼氏/彼女と結婚すれば何もかも素晴らしい人生が待っているだとか、子供が生まれてもう人生でやり残したことはなくあとは子供を淡々と育てていくだけで人生満足だとか、あるいは、いまのまま何もせず無為に毎日を過ごし続けられるだろう、という「希望」かもしれません。

それらは全て、公然とあるいは突き詰めれば完全な「希望」などではないのですが、人生のそれぞれの場面で様々な種類の「希望」を頭の中に描き、それを信じて行動することで脳内物質的な幸福を感じる。

その瞬間がずっと連続していれば「死」のことは考えない、それが、それなりに幸福な人生を送る人の「死」についての「考えない」という考え方を支えている要素であると思います。

宗教という意味で言えば、教義に従った行動さえしていれば、神様などが救ってくれる、という希望を持って行動することが「死」の恐怖から信者を救う鍵となっているのでしょう。

そう考えつつ本書を振り返ると、高村さんはそういった「熱中」や「希望」を感じる能力が極端に低いというか、ほとんど「死」に対してしか「熱中」していないようにさえ思います。

この「熱中」や「希望」を感じる能力が高すぎると自分の人生を客観的に見つめられず破滅してしまったり、陰謀論に走ったりしてしまうのかもしれませんが、これほど「死」以外への感受性が低いのもなかなかやっかいな性質です。

そして、敢えて高村さんが感じている「死」の観念に少しばかり反論するならば、高村さんは「死」についてこれほど考えているにもかかわらず、「死」の解像度が粗いというか、「存在消滅」という大きな一つの括りでしか「死」を見据えられていないように感じられます。

人生で起こることは「死」以外にもたくさんあって、その中にはもう取り返しのつかなくなってしまったもの、存在が消滅してしまったもの(あるいはしてしまうもの)が幾つもあります。

例えば、少年時代というものはもう帰ってきません。

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