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「涼宮ハルヒの憂鬱」谷川流 評価:4点|独特な語り口と突飛な設定から生まれるエンタメの中に文学的テーマ性を潜ませたゼロ年代オタク界隈の金字塔作品【ライトノベル】

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涼宮ハルヒの憂鬱
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「東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上。」

この特徴的な自己紹介によって、「なんだこいつ?」という本作最大の謎(涼宮ハルヒは何者なのか?)を読者に吹っ掛け、彼女が気まぐれに創ったSOS団に続々と「宇宙人、未来人、超能力者」が加入することで、読者をいい意味で混乱の渦に叩き込んでいく(この物語はどうなってしまうんだろう?)。

しかも、「宇宙人、未来人、超能力者」たちはハルヒに対してその正体を隠しており、キョンに対してのみその身分を開示します。

そして、宇宙人と未来人、そして超能力者は、ハルヒという人物について一つの共通した見解をキョンに語ります。

それは、涼宮ハルヒという人物は世界全体をどのようにでも改変できる能力を持っている、しかし、ハルヒ自身はその能力に気づいていないという見解です。

秘密の共有、いままでは訳の分からない存在だったハルヒが、読者にとっても「観察対象」になる瞬間。

ここにきて、本作は奇抜な美少女に振り回される学園ラブコメという仮面を脱ぎ去り、ミステリ感のあるSFへと変貌するのです。

しかし、ただ周囲の人物が「涼宮ハルヒは特別な存在だ」と言っただけではその確実性に対する説得力に欠けるのも事実。

そんなことを現実世界で言われたって、半信半疑どころか、そんなことを言う人間こそ頭のおかしいやつだと認識するのが普通でしょう。

そんな読者の疑念をあっさりと晴らすのが、学級委員長である朝倉あさくら涼子りょうこによるキョンへの襲撃事件。

SOS団員であり「宇宙人」でもある長門ながと有希ゆきの助力によってキョンは九死に一生を得るのですが、朝倉涼子が宇宙人としての「同僚」であり、涼宮ハルヒの観察を主な任務とする長門とは異なる派閥「急進派」に所属する宇宙人なのだと長門は語るのです。

超人的魔法的技術を使った文字通りの「戦闘」が目の前で繰り広げられたことで、キョンは涼宮ハルヒを巡る言説が本当のことであると認識するようになります。

翌日、担任の先生が朝倉涼子の転校を突然告げるのですが、こんな珍事にじっとしてはいられないのが涼宮ハルヒという人物。

早速、キョンを引き連れて朝倉涼子が暮らしていたとされるマンションへと足を運びます。

朝倉涼子によるキョン襲撃失敗からの転校という事象を、「キョン襲撃時における戦闘」という魅力的な場面を作りだすためだけに使うのではなく、朝倉涼子の敗北に伴う彼女の「転校」という自然な後始末を利用して次の展開へと滑らかに移るためにも使っている。

この場面転換手法には、地味ながら作者の技量がよく表れていると言えるでしょう。

凡庸な作品ならば「朝倉は転校しました」までで一つのエピソードとし、次の展開に向けて全く異なる新しい事件を挿入すると思うのですが、そんなに手間をかけていてはある程度の間延びが避けられません。

朝倉涼子によるキョン襲撃事件を、キョンや長門有希といった関係者の視点からスリリングな事件として描いたあと、涼宮ハルヒという部外者の視点(何もなかったはずなのに突然、人気者の学級委員長が転校した)からの驚愕すべき事件として見せつけ、涼宮ハルヒによる次のアクションへと繋げるという流れには人気作家の職人芸を感じます。

さて、朝倉涼子が住んでいたとされるマンションに向かったハルヒとキョンですが、訪問では転校について何の手掛かりも得られず、勇み足の行動は空振りに終わります。

珍しく気落ちしているような、寂しげな表情のハルヒが帰路、キョンに自分が突飛な行動をするようになった理由を語るのですが、この語りによって本作は一気に文学的な深遠さを纏います。

幼い頃、父親に連れられて野球の試合を観に行った涼宮ハルヒ。

(舞台設定からは恐らく、阪神甲子園球場でのプロ野球の試合だと推察されます)

野球には全く興味はなかったけれど、涼宮ハルヒは球場で見たある事柄に圧倒されます。

それは、何万人という人々が蠢く球場の様子そのもの。

快活で友人が多く、自分が生きる日常こそが世界で一番楽しい生活であり、自分は既に特別な存在なのだと確信してやまなかった小学生のハルヒでしたが、この野球観戦をきっかけに、自分が無数の人々のうちの何でもない一人なのだという事実を強烈に意識するようになります。

野球観戦から帰ったあと、電卓を叩いて、自分という存在が世界人口のうちの僅かな割合しか占めていないのだということを確認するハルヒ、という演出には胸に迫るものがありますね。

球場という「ライブ」な場所において感覚的に圧倒されただけに留まらず、その後、自分自身という存在の世界に占める割合を定量的に確認するという行動をとる点に、涼宮ハルヒという人物が持つ強烈な知性を感じはしないでしょうか。

この野球観戦事件以来、自分の人生を凡庸には終わらせたくない、何か特別な存在になりたいという想いから突飛な行動を連発するようになるハルヒなのですが、冒頭に挙げた自己紹介時の発言のような突飛な言動が、単なるライトノベルにおける「キャラ設定」という次元で存在しているのではなく、その根底にどこまでも生々しい自己意識があるという点に本作の文学的な側面があるのです。

いわゆる青少年を主人公にとる作品においては、よほどエンタメに振り切った作品でもなければ、そこに青少年期ならではの葛藤という要素が挿入されることが常であり、本作でハルヒが語る「自分自身のちっぽけさ」という葛藤はありがちな「葛藤」ジャンルの一つではあります。

しかし、本作の面白い点は、これを華々しいライトノベル的な戦闘シーンの直後という状態で、簡潔かつ印象に残るような語り口でヒロインに述べさせ、「だから突飛な行動をしている」という、彼女なりの解決策(しかもこの「解決策」は冒頭から露骨に表現されるのです)を惜しげもなく提示するところです。

平凡な作品であれば、このような「葛藤」は主人公が抱くものであり、主人公はその「葛藤」の中で悩みながら解決策を模索し、その解決をもって(それが臨時的なものであっても)物語は幕を引くはずです。

ところが、本作では「凡庸な人生を甘受している」人物を主人公に置きつつ、「葛藤」を乗り越えて解決策的な行動を実行している人物をヒロイン、つまり読者から見た他者として登場させることで、一つの特別な効果を引き出しています。

それはつまり、物語開始当初においては「フィクション作品の、それもライトノベルの登場人物だからね」という言い訳を用いてしか受け入れられなかったはずの涼宮ハルヒの言動や信念こそが、実はまともな感覚であり、読者の分身であるキョン的な生き方こそが、どこか狂っているのではないか、と読者に思わせることです。

ありきたりな人生を過ごしていたヒロインだったけれど、野球観戦時に観衆の「量」に圧倒され、自意識と行動を変えていった。

その自然な語りは、おそらく様々な場面で「大観衆」や「人間の大群」を目にしたことがあるような読者(都市部の読者限定かもしれませんが)に、こう問いかけるのです。

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