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「グッバイ・コロンバス」フィリップ・ロス 評価:2点|1950年代のユダヤ系アメリカ人コミュニティにおける若者の恋愛と家庭や世代による価値観の相克について【海外純文学】

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グッバイ・コロンバス
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1959年に出版されたアメリカの恋愛純文学小説で、20代のユダヤ系アメリカ人同士の恋愛を主題としつつ、アメリカにおけるユダヤ人コミュニティ内での価値観分裂に焦点を当てた作品です。

若者同士の恋愛については現代日本人から見てもまだ通じる話にはなっているのですが、当時のアメリカ社会の様相であったり、その中で重視されている価値観(特に信仰や純潔についての拘り)という面では、これは現代日本とは全く違う世界の話なのだということを意識しつつ読まなければ混乱するような筋書きになっております。

著者は本書を表題作とする短編集で1960年の全米図書館協会賞を受賞しており、当時としてはまさに瑞々しくセンセーショナルな作品だったのでしょう。

確かに、翻訳の良さも手伝って瑞々しく端正な文章には惹きつけられるものの、物語そのものにはあまりのめり込めなかったなというのが率直な感想です。

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あらすじ

主人公は大学卒業後図書館員として働いているニール・クルーグマンという青年。

ある日、プールで出会ったブレンダ・パティムキンに一目惚れすると、たちまち彼女にアプローチをして成功し、二人は付き合うことになる。

しばらくは清純な関係を楽しんでいた二人だが、いつしか身体の関係となり、その親密さは増していくばかり。

しかし、そんな二人の間柄に立ち込める暗雲が一つだけあった。

それは、性行為の際に避妊具を装着するか否かということで......。

感想

そうした避妊具を巡る諍いのすえ、ついにはブレンダが折れて医者のもとに避妊具を調達しに行くものの、これが物語の転換点となってしまう、というのが本作の中盤までの展開です。

本書の冒頭は非常にロマンティックな二人の出合いから始まり、この場面こそは耽美な恋愛小説としてお手本のような幕明けなのですが、それ以降の展開を理解するには、当時のユダヤ系アメリカ人社会について丹念に思いを馳せる必要が生じます。

主人公のニールもヒロインのブレンダも同じユダヤ系アメリカ人の家系に生まれているのですが、双方の家庭は対照的な雰囲気を持っています。

ニールの家庭はユダヤ系アメリカにしては貧しく、信仰的にも言わばある程度堕落した家庭のように描かれています。

合理性を欠いた珍妙なこだわりを基盤とするヒステリックな叫びをいつも絶やさない叔母さんという貧困層の精神性を代表するような人物との同居生活が生々しく描写されているのが象徴的で、彼女のちょっとした狂気をうまくあしらいながら生活するニールの胸中にある虚無の感情がそうとは明言されずにニールの振る舞いだけで表現されるのには著者の力量を感じるところです。

一方、ブレンダの家庭は言わば成功したユダヤ人の家庭であり、富裕でありながら信仰心も篤く、ブレンダ自身も名門校を卒業しているほか、ブレンダの兄もバスケットボールの花形選手として大学時代に活躍した人物として描かれています。

親類にも奇妙な人物はおらず、まさに上流階級を代表する「ファミリー」像がそこにはあります。

こういったニール・クルーグマン家とブレンダ・パティムキン家の違いが克明に表現されるシーンこそ、ブレンダの母親がニールに対してユダヤ教の宗派を問う場面です。

ブレンダの母親が属する最も厳格な「正統派」なのか、ブレンダの父親が属するやや進歩的な「保守派」なのか、それとも、非常に進歩的な「改革派」なのか。

しかし、ニールは現在教会に殆ど通っておらず、自分自身が何派なのか、かつて通っていた協会が何派に所属するかも知らず、しどろもどろな嘘で繕ってブレンダの母親から不信感だけを買ってしまいます。

もちろん、ブレンダの母親は「改革派」ですら嫌っている厳格なユダヤ教徒であり、信仰に興味がないなどという態度はもってのほか。

ブレンダもそういった家庭で育っているので、信仰に対してはある程度厳格な想いを抱いています。

だからこそ、二人のあいだでは避妊具の使用が問題になるわけで、つまり、ブレンダにとっては婚前交渉すら思い切った行動なのであり、子供を産む目的以外の専ら快楽を目的とした性行為をしてはならないという教義に反する避妊具の使用には強い抵抗があるわけです。

最終的にはブレンダの母親がこの避妊具を発見してしまうという展開から二人の破局が進むわけですが、避妊具を巡って喧嘩になるとか、避妊具を医者に貰いに行くことが一大事だとか(コンビニやドラッグストアで気軽に買えるものでもなかったのです)、それが母親に見つかる衝撃だとか、そのあたりのことが切迫した危機として上手く捉えられないと本書で感動するのは難しいでしょう。

実際、私も「当時のアメリカ社会の文脈や宗教に対する過程や世代ごとの価値観の違いを想像すれば理解はできるが、頭で理解しても心までは動かされない」という心境で、どこか客観的な視座のまま読み進めてしまいました。

また、本書ではサブエピソードとして、ニールが勤務する図書館に足繫く通う黒人少年とニールとの交流も描かれます。

美術書の閲覧を所望する黒人少年に対して同僚の図書館員は盗むつもりなのではないかと疑義の視線を向けますが、ニールは躊躇わず美術書の棚の場所を教え、それだけでなく、黒人が毎日読みに来る美術書が貸し出されないよう利用者に対して嘘をつくことまでやってのけるのです。

このエピソードが何を表しているのかは分かりませんが、恐らく、ニールという青年の心に宿っている偏りのない勇気ある優しさを表現しているのではないでしょうか。

当時の社会情勢を鑑みれば、黒人少年に対する侮蔑的な態度を取る同僚こそいわば「普通の白人」なのでしょう。

しかし、ニールはそういった偏見を退け、黒人少年の善意を信じて彼に美術書の位置を案内します。

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