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「涼宮ハルヒの動揺」谷川流 評価:2点|伝説的なライブ回の原作から長編に繋がる布石編までを収録したサブエピソード集【ライトノベル】

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涼宮ハルヒの動揺
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急病と怪我で正規メンバーに欠員が出たバンドの緊急代打をハルヒが引き受け、見事なボーカルで代役の任を果たすというだけの話なのですが、「涼宮ハルヒ」という生き方が周囲からどう見られているか、「涼宮ハルヒ」という変わった生き方が結果的にどのような効用を彼女自身にもたらしているのかが描かれた話でもあり、久方ぶりに「涼宮ハルヒ」シリーズが持つ純文学性が輝くエピソードとなっております。

主人公であるキョンを始め、その奇抜な行動によって悪い意味での注目を入学当初から集めていた涼宮ハルヒという少女。

しかし、彼女の動機に邪な感情はありません。

誰かに迷惑をかけて目立とうとか、突飛なことをすることそのものが彼女の目的なのではなく、この世界の不思議を探しながら毎日を面白く特別に生きようということが彼女の行動原理になっています。

だからこそ、最初は悪い意味で奇人変人扱いだった彼女への評価も、いつしか「面白いやつ」に変わっているのです。

そして、いざ緊急事態が起こったとき、頼られるのは誰もがその名前を頭に浮かべる人物であり、この人になら窮地から救ってくれる行動力と発想力があるだろうと思われている人物になるのは世間の必定といえるででしょう。

涼宮ハルヒが代役を申し出たときに放たれたバンドメンバーからの「そうね、あなたなら出来るかもしれないわね」という台詞がその世間感覚を如実に物語っております。

世間にどう思われてもいいから、まずは自分の好きなこと、自分が強いこだわりを持っているようなことについて自分の思うように行動してみる。

(マーケティング力やセルフプロデュース力が重視される側面もありますが)邪ではない純粋な気持ちで行動を継続して重ねていれば段々と良い意味での注目が集まってくるし、成果が生まれてくる。

そうなってくると、最初は後ろ指を指していた人たちも手のひらを返すか、もしくは、そんな人たちの存在が霞んでしまうくらいの支持者に囲まれ、充実した人生を送ることができるのだ。

こんな言説は、評価経済が浸透した昨今においてYouTuber等をはじめとしたクリエイターたちが盛んに口にする常套句であります。

いまの子供たちは、きっとそういったインフルエンサーから開拓精神というものを学んでいるのでしょう。

しかし、まだSNSも未発達で動画投稿サイトも現在のような用途では使われていなかった時代、子供たちはそのような精神を伝記やジュブナイル小説から学んでいたのです。

「涼宮ハルヒ」シリーズの刊行は、第1巻である「涼宮ハルヒの憂鬱」が2003年、第6巻である本作が2005年となっており、まさに「インフルエンサー時代」や「動画時代」、「SNS時代」幕明けの直前であって、読書という行為が強い影響力を保持していた最後の時代だったといえるでしょう。

その時代は「涼宮ハルヒ」シリーズをはじめ有望なライトノベルが幾つも登場していた時代でもありましたが、結果的にライトノベルは新時代のジュブナイル小説という路線には乗らず、あくまで極端な娯楽性を追求するジャンルになってしまったことには落胆を禁じえません。

この「ライブアライブ」という短編で表現されている事象は、そもそも勉強も運動も音楽もできる才女としての涼宮ハルヒというチートキャラの存在を前提としているものの、単なる娯楽小説としてではなく、世の中を渡っていくうえでの重要な精神性をそれとなく伝える役割を果たすような文学作品としての価値を「涼宮ハルヒ」シリーズが持っていることを示す格好の例に違いありません。

・朝比奈ミクルの冒険 Episode00

約束されたゴミエピソードというか、よく出版できたなぁというレベルの話です。

第2巻「涼宮ハルヒの溜息」が文化祭に向けて映画撮影を行うという内容の長編なのですが、そこで撮影された映画の物語自体を文章表現で垂れ流したのがこの短編となっております。

撮影の結果として出来上がった映画が駄作であることを主人公のキョンを通じて読者に伝えているのに、その駄作映画の内容を事細かに描いて垂れ流すという暴挙。

当然、読んで面白いはずもありません。

あまりの大ヒットぶりに「涼宮ハルヒ」シリーズの原作話として売り出せばなんでも売れた時代だったので、著者の谷川流さんも締切りに追われて書いてしまい、編集者(or出版社)も商業上の都合に目が眩んで目先のお金を拾いに行ってしまったのでしょうか。

当時のファン(私を含めて)はどんな些細な情報であっても「涼宮ハルヒ」シリーズに纏わる情報というだけで興奮したものであり、あれやこれやと考察を重ねたものなので、ファンの異様な盛り上がりぶりにも罪があった側面は否めないのですが。

ちなみに、アニメ版第1話の原作がこの短編であり、主人公がそうだと認める駄作の劇中劇を第1話に突っ込み、第2話でキョンとハルヒの出合いを描くというとんでもない話順で放送されたことも「涼宮ハルヒ」という作品の異端ぶりを印象付けました。

ドラマであれアニメであれ、最近は「3話切り」どころか「1話切り」が普通で、その第1話ですら倍速視聴するという文化環境ですから、今日では絶対にできない構成です。

いま振り返ってみると、アニメの1クールもしくは2クール程度をひとまとまりの作品として鑑賞する態度が残っていた時代の趣を感じますね。

駄作だと作中で言い切られている劇中劇を描いているので当然に駄作なのですが、アニメ版の演出的側面を盛り上げた原作エピソードとしての価値はあるのかもしれません。

・ヒトメボレLOVER

この話の何が面白いのか、と問いたくなるような中編です。

SOS団員にして実は宇宙人である長門有希にキョンの中学時代の同級生が一目惚れ。

中河という名前のその男子生徒は、いいところを見せようと彼が出場するアメリカンフットボールの試合に長門をはじめとするSOS団員を呼びつけるのだが、試合中に彼は怪我をして病院に運ばれてしまいます。

彼を見舞いに行った後、長門がキョンに事の真相を打ち明けるというのが本作のオチまでの粗筋です。

何が言いたいかというと、べつに筋書きに矛盾や非現実的(作中でのリアリティラインを超えるような事象)出来事が存在するわけではないのですが、とにかくつまらない話だということです。

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