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「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」熊代亨 評価:4点|無菌ゆえに息苦しい社会に適応することの困難【社会学】

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健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
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密接な人間関係に基づくインフォーマルな取引市場が急激に縮小する一方で、公開市場における契約取引が多くなり、そこでは暴力による脅迫も排除されている以上、経済資本を既に多く持つ人々や、容姿やコミュニケーション能力が特段に優れている人々が市場を「独占」するのは目に見えているからである。

そんな社会の中で、経済資本の乏しい家庭に生まれたり、容姿やコミュニケーション能力に生得的な劣位を抱える人々は構造的に差別され、排除され、生きづらくなっているのではないか、というのが熊代氏の主張である。

直接そうは記載されていないものの、現代社会構造における新たな「生まれによる差別」がそこにあるのではないか、ということを言いたいのだと個人的には推測している。

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第七章

第七章は全体のまとめとして、資本主義、個人主義、社会契約に象徴される現代社会の在り方が総合的に評論されている。

ムラ社会的な共同体から解放され、自由を得たように思える私たちは、実のところ「他者に迷惑をかけないような幸福追求」という難題に直面している。

ここで言うところの「他者に迷惑をかけない」のハードルは現代社会において極めて高くなっており、清潔な街に馴染めるよう、自らの服装や匂い、挙動を現代風に取り繕うことを常態としなければならない困難を背負っている。

加えて、他者もこちらに対して迷惑をかけないよう振る舞うのだから、インフォーマルな関係性はますます築きづらくなっている。

他人の私生活に踏み込むべきではない、他人の教育に手や口を出すべきではない。

そういった風潮は他者の私生活を積極的に助けたり、他者の子育てを積極的に補助しようとするインセンティブを失わせ、結果的に各個人を孤立へと導き、少子化も助長している。

社会契約によってのみ物やサービスが提供される社会は小器用に振る舞えない個人を差別・排斥し、経済資本やかわいさ資本による格差をますます拡大させていく。

そういった社会から零れ落ちた人々は「福祉」や「医療」の対象とされ、社会から排除されて病棟に押し込まれ(あるいは通院を余儀なくされ)、「正常さ」を取り戻すまで社会復帰はできない。

精神疾患の診断や発達障害の診断が増えているのは、現代社会が課す「清潔」「経済資本」「かわいさ」ハードルが上がり過ぎた結果、それを乗り越えられない人が増えていることを示しているのではないか。

ハードルを乗り越えられる特権階級だけの社会が追及されているのではないか。

そんな社会は、特権階級に対して短期的な利益をもたらすものの、ハードルを乗り越えられない人々の排除と子育て忌避による少子化を通じて持続力を失うのではないか。

資本主義、個人主義、契約社会が徹底された社会以外の可能性について議論し、コミュニケーションし、現行社会で排斥されがちな思想や人々を包摂していく。

それこそが、本当に多様性のある社会なのではないか。

熊代氏は、ポリティカル・コレクトネスに反しない程度の控え目な言説で現代社会に疑問を投げかけ、本書を閉じる。

結論

現代社会の在り方について批判的に論じる書籍を挙げろ、と言われれば真っ先に推薦したい書籍である。

「正しい」とされている清潔で自由な社会についての、言語化しづらい疑問や懸念が明瞭な言葉で包括的に論じられており、特に現代社会における排斥やある種の差別について最も本質的な言及が為されているといえる。

本書を読んで思い起こされるのは、かつての社会で暴力や不潔さが持っていた肯定的な価値である。

こんな物言いをするのは、特に現代社会においては反社会的であることは自覚しているし、暴力や不潔さには多くのデメリットがあることも理解しているつもりだ。

しかし、いざ暴力と不潔さを「失って」見ると、そこに全くメリットがなかったとも言えないのではないだろうか。

常に暴力の恐怖や脅迫があったからこそ、単に家庭の経済資本が優れていたり、生得的に容貌が優れている者による社会資源(金銭や名声)の独占を防げていた。

大昔のムラ社会において、富を独占していれば集団暴力によって奪われただろうし(打ちこわしなど)、それは大名や貴族、国王でさえ例外ではなかった(一揆や革命)。

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