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「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」熊代亨 評価:4点|無菌ゆえに息苦しい社会に適応することの困難【社会学】

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健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
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精神科医ブロガーである熊代亨氏による現代社会評論。

非常に個性的で長いタイトルは、令和時代を覆う雰囲気への違和感を言語化するという本書の試みを見事に表現していると言えるだろう。

令和時代の、清潔で健康で道徳的な秩序にすっかり慣れた私たちから見て、高度経済成長期の日本社会はおよそ我慢できるものではなかったはずである。

本書の「はじめに」に記載されている文章であるが、高度経済成長期まで遡らずとも、最近の社会が妙に潔癖であると感じている人は少なくないと思う。

街は異様なほど綺麗になり、痰を吐いたり立小便をしたりする人はいない。

浮浪者のような恰好をした人物を見かけることもいよいよ稀になってきた。

人々はどこまでも整然と歩き、公的な空間では異様なくらい静かであることに努めていて、喧嘩や体罰、ハラスメントのようなカジュアルな暴力は滅びつつある。

どんな店に入っても店員の態度は概ね良好で、横柄な接客という概念も姿を消し始めた。

かつてに比べ、あらゆるコミュニケーションが丁寧になっている。

良い世の中になりつつある傾向じゃないか。

そう思う人もいるだろう。

というか、そう思わない人の存在を想像できない人だって少なくないだろう。

けれども、本書が問うのはまさに、こういった世の中の清潔さがもたらした息苦しさと、その意外な、しかしながら納得感のある、現在進行中のあまりにもやりきれない帰結である。

令和の社会に息苦しさを感じる人はもちろん、息苦しさを感じている人なんているのか、と思う人にも読んでほしい良書となっている。

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目次

第一章 快適な社会の新たな不自由

第二章 精神医療とマネジメントを望む社会

第三章 健康という"普遍的価値"

第四章 リスクとしての子育て、少子化という帰結

第五章 秩序としての清潔

第六章 アーキテクチャとコミュニケーション

第七章 資本主義、個人主義、社会契約

第一章

第一章では、現代を覆う不自然な自由さと奇妙な不自由さについての概要が述べられる。

昭和時代に比べ、犯罪行為の減少により治安が劇的に改善した日本。

街も清潔で秩序正しく、交通ルールや標識を日本人たちは高確率で遵守する。

子供たちも聞き分けがよくて礼儀正しく、かつての腕白さややんちゃさは良い意味でも悪い意味でも失われた。

そして、あらゆる職業において、人々は円滑なコミュニケーションのもとテキパキと働いている。

(そうじゃない職場もある、うちの職場はそうじゃない、と思う読者がいるかもしれないが、かつてに比べて平均的にはそうなっているという意味だと個人的には解釈している)

そういった事実を並べ立てた後、筆者はこの事実に対する鋭い解釈を私たちに突きつる。

「テキパキとしていない、コミュニケーション能力の低い人でも働けるポジションの広さ」という視点で考えるなら、昭和時代の日本や他の国のほうが、まだしも優しい社会だったと言えるのではないだろうか

昭和時代を生きた人ならばきっとすぐに思いつくであろう、どうしようもなく鈍くさくてコミュニケーション能力が低い、仕事ができない人々。

昭和時代においては、彼らも仕事をしていて、それゆえに、人々の目に触れる存在だった。

第一に「コミュニケーション能力」であり、「主体性があって」「チャレンジ精神に富み」「協調性があって」「誠実な」新卒者

経団連による新卒採用のアンケート結果である。

日本の大企業が求めているのは、有用な資格でもなければ数字で測定可能な能力などでもなく、とこまでも清らかで社交的な人格。

人格やコミュニケーション能力という側面において、いわゆる社会人としてのボーダーラインは際限なく引き上げられており、境界線上の知能にある人や、コミュニケーション能力に欠ける人は最も迫害されているマイノリティとして社会に居場所がなくなってきている。

そしてもちろん、奇妙な不自由さを強要されているのはそういった人々ばかりではない。

標識や案内が街中に張り巡らされていて、それに従えるだけのリテラシーと、従うだけの従順さが社会を生きるための必須能力となっている。

共同体から脱して自由に人付きあいを選べるシステムは同質的な人々ばかりを結び付け、自分好みの情報ばかりが流れるよう設計されたインターネットの構造は思想の硬直化にますます拍車をかける。

標識や案内、建物の意図された構造に逆らって動いたりすることは難しく、異質な人間と交流する機会は自動的に奪われている。

昭和の猥雑さの中にあった、意図された秩序に反する自由や、異質な他者がねじ込まれることによって起こる化学反応はもはや存在しない。

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