第五章
街が清潔であることが当然となり、清潔であることが人々に義務付けられている社会の功罪が第五章では論じられる。
繁華街の牛丼屋といった特定の場所を除き、現代社会では清潔であることが義務付けられている。
もちろん、この義務というのは法律上の義務ではなく、いわば肌感覚としての、雰囲気的な圧力としての義務である。
例えば、タワーマンションが林立する地域やニュータウンと呼ばれる地域では、ホワイトカラーで新中間層的なライフスタイルを示唆する格好をしていなければ途端に浮いてしまい、ときには不審者というカテゴリにさえ入れられてしまう。
お洒落な格好で買い物をしたり、子供と公園で遊んだり、ランニングをしたり。
そういった、爽やかな挙動が半ば義務付けらる場所が現代社会では急速に拡大している。
しかし、そんな日本になったのはつい最近のこと。
ホームレスを排除して街を「浄化」し、福祉の名のもとに住居と労働を「強制」して現代社会の論理に押し込んでいった結果、街で汚い恰好のホームレスを見る機会は劇的に減少した。
また、一般人のあいだにデオドラント革命が起き、入浴回数の激増と無臭をつくり出す製品の増加により都市から不潔や悪臭は一掃されていった。
繁華街の浄化も積極的に行われ、取り締まりの強化によって街中での諍いも減少していった。
このような社会の中では、権威的・暴力的に振る舞うことは一種の悪とされ、そういった振る舞いを見せる人に対して感じる不安という感情の価値が絶対的な強さを保持するようになる。
そういった風潮の変化が生みだした状況の最たるものこそ「『かわいい』は正義」だと著者は主張する。
清潔で安心感があり、誰もにソフトな好感を与える存在。
そんな存在の価値が最高潮に高まった結果、女性はもちろん、男性やマスコットキャラクター(例:ゆるキャラ)でさえも「かわいい」を前面に押し出すようになっていった。
これは、欧米社会の男女が相手に侮られないような背格好で「武装」しようとするのとは対照的だという。
私見ではあるものの、現代日本社会は若くて「かわいい」女性の実質的な権力が非常に強い社会であると思う。
警察による治安維持が行き届き、特に女性に対する司法の法的保護も増していった結果、暴力にものを言わせて他者を服従させ、屈服させることは相当難しい社会になっている。
それどころか、暴力的で権威的な態度を見せるだけでも不審者や不届者扱いされ、厳格化されたハラスメントの基準に抵触して社会的な罰を受けることも多くなってきた。
その一方、「かわいさ」によって他者を屈服させることは全く禁じられていないどころかむしろ推奨されているくらいである。
奇妙なことを言っているかもしれないが、私たちは男女問わず、暴力的なものに怯える本能を持っている一方、「かわいい」ものにはつい甘くなり、好かれたいと思う本能も持っている。
「かわいい」を憧れとして、そういったステイタス獲得を目指すことに執心する人々も多い。
かつては、いくら「かわいい」度合いが高くても、あるいは、「かわいい」度合いが高ければ高いほど、暴力性や権威性の脅威に晒される機会が多かったかもしれない。
しかしいまでは、そういった暴力性に晒されることなく、全方位から便宜と尊敬を得られる地位に「かわいい」が登り詰めているのである。
「かわいい」だけで、あるいは「かわいさ」を磨くことで多額の金銭と社会的地位を得られるようになっている社会構造(例:YouTuberやモデルなど)は、かつて暴力的で権威的な人物がその暴力性と権威性を駆使して金銭と社会的地位を得ていた姿と重なる。
暴力強度の優劣が様々な序列を決めていたごとく、「かわいさ」の優劣が様々な序列を決めているのである。
さて、そんな清潔な社会が持つデメリットを、熊代氏は本章の末尾で論じている。
このように清潔な社会に軽々と適応できる人物とは、清潔な社会に適応した家庭や地域社会で育ってきた人物たちであり、また、自分自身が清潔であることに金銭を投じられる人物だけであるという。
そういった人物たちは今日の社会においてマジョリティであり、胸を張って堂々と生きている存在である。
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