1999年に公開されたアメリカ映画であり、今日でも評価が高いハリウッド映画の古典作品の一つです。
「ベンジャミン・バトン」や「ソーシャル・ネットワーク」、「ゴーン・ガール」といった作品を後に製作することになるデヴィッド・フィンチャー氏が監督を務めております。
大物俳優の出演としては、主人公の相棒であるタイラー・ダーデンをブラッド・ピットが演じており、さすがの演技で魅了してくれます。
不眠症に悩んでいるサラリーマンの主人公が「殴り合い」による充実感を得ることで精神的な変貌を遂げていく、というストーリーラインが鬱屈した日常を送っているであろう多くの日本人サラリーマンに刺さること請け合いでしょう。
私もそんなサラリーマンの一人だけあって、序盤から中盤までの展開には興奮させられましたが、中盤以降の展開についてはやや突拍子もないものに感じられました。
社会派といえばそうなのでしょうが、「社会」を描くにしては手管が大雑把過ぎるように感じられ、大仰な展開に見合うだけの説得力や感情的な揺さぶりが欲しかったところです。
あらすじ
主人公の「僕」は大手自動車メーカーでリコール調査の仕事に就いている。
十分な給料を得ており、物質的には充足した生活を送っているものの、自分でも原因が分からない不眠症に悩まされており、精神科の医師に自ら薬の増量を求める始末。
しかし、精神科医は「僕」の訴えを退け、過度に被害者ぶる「僕」に対して睾丸ガン患者の集いに参加することを促す。
そして、助言に従って睾丸ガン患者の集いに参加した「僕」はそこで強い衝撃を受ける。そこには人生の根底を揺さぶるような悲しみがあったのだ。
これを契機に様々な重病自助グループの集会に参加するようになった「僕」は、自分と同じような行動をしている女性、マーラ・シンガーと出会ってしまう。
自分以外に偽物の患者が紛れ込んでいる状況は快くないため、「僕」とマーラは参加する集会を分けることにするのだが、それにより、「僕」の生活にもたらされていた潤いは半減してしまう。
そんなある日、リコール調査の出張のために飛行機に乗った「僕」は、隣席に座った男、タイラー・ダーデンと交流を持つ。
その直後、自宅が火事になるという不幸に遭う「僕」だが、宿無しとなった日にダーデンの自宅に泊まったことをきっかけに、「僕」は夜な夜な殴り合いを行う集団「ファイトクラブ」の創設に関わるようになり......。
感想
物質的には満たされても、精神的には枯渇していくサラリーマンという仕事。
本作のそんな導入に共感する方は日本でこそ多いのではないでしょうか。
友人、恋人、家族、趣味、あるいは転職。
まともな処方箋はそんなところでしょうが、映画作品であるところの本作が提示する解決策はもちろん、そんなものではありません。
第一の解決策は、重病患者の自助サークルに参加してみること。
重病患者たちの悩みというのは、重病を理由とした家族との離別であったり、人生で誰もが経験できるであろうことを経験できないということ、そして、場合によっては、死期が迫っているということ。
サラリーマンの仕事で精神を病んでいて不眠症なんて、そんな生ぬるい(本当に精神疾患を患っている方には申し訳ないですが)ではないのです。
ある意味で「下」を見たことで、というのは解釈の行き過ぎかもしれませんが、精神的な非日常を経験することで、主人公は不眠症から脱却していく、という流れは人間の「心」の在り方の表現として面白く、物語に惹かれていくのに十分な効果を持っておりました。
加えて、そんなことではまだ不十分である、という畳みかけを行ってくるのが本作の面白いところ。
ひょんなことからタイラー・ダーデンと毎晩殴り合いをすることになった主人公なのですが、主人公とダーデンの殴り合いはいつしか見世物となり、やがて多くの男たちが参加する「ファイトクラブ」という組織に成長していくのです。
この「ファイトクラブ」の在り方が現代を生きるサラリーマンに刺さる点は、主に以下の2点でしょう。
1点目は、殴り合いによる身体感覚の再生です。
普通のサラリーマン生活を過ごしていて、他人を殴ったり、あるいは、他人から殴られたりすることはまずないと思います。
身体を動かす仕事であったり、あるいは、趣味で筋トレをしているという人であっても、殴る/殴られる衝撃というものを生身に経験する人はあまりいないでしょう。
最後に殴り合いの喧嘩をしたことは小学校以来である、という人もいるのではないでしょうか。
あるいは、最近の子供たちはもう、小学生ですら殴り合いの喧嘩なんてしないかもしれませんね。
もし、殴り合いの喧嘩を一度でも行ったことがあるという人は、思い出そうとしてみてください。
他者から振るわれる暴力というものには、自分で自分を叩くときのような本能的自制が働いてはおりません。
その遠慮ない、生々しい痛み。
そして、自分が他者を殴るときの、日常生活では得られないような、どこか天井が開いたような(あるいは底が抜けたような)虚ろな高揚感。
コメント