第二章
第二章では、社会のハイクオリティ化と精神医療の関係が論じられる。
ADHD(注意欠陥多動症)やASD(自閉スペクトラム症)、発達障害だと診断される人々が急増していることを、熊代氏は精神科医の立場から指摘する。
関連して、本章では精神医療の歴史が紹介されるのだが、おそらく、それを通じて熊代氏が言いたいのはこういうことだろう。
現代社会では「注意」することが多すぎるために「注意欠陥」と診断される人が増えたのだ。
現代社会では「秩序ある抑制的な行動」が求められ過ぎるために「多動症」と診断される人が増えたのだ。
現代社会では「オープンマインドで明るく朗らかに会話をする」必要が激増したために「自閉スペクトラム症」と診断される人が増えたのだ。
テキパキさや溌溂さを際限なく発達させなければ現代社会に追随できない、だからこそ、発達障害だと診断される人が増えたのだ。
昭和時代にも、落ち着きのない人間(大人も子供も)やテキパキさに欠ける人間が多く存在した。
けれども、街中が雑然としていて、喧嘩や騒音が絶えず、臭いにも鈍感だった時代。
子供が騒いで物を壊すのが当たり前だった時代、体罰やハラスメントも当たり前だった時代。
そんな時代では、いまや障害だと認定されるような挙動も、社会やその人自身の人生に対する「障害」になってしまう程度が低かったのである。
そもそも多数派が騒然と日々を過ごすことを当然視していたならば、障害のために騒然とせざるを得ない人だって目立たないし、異質だと思われることもない。
多くの労働者が適当に働き、社会や職場の側もそれを受容していたのならば、障害のため適当にしか働けない人物だって目立たない。
子供は原理的に反秩序派なのであって、不法行為や不道徳な行為をしまくるものだという認識が社会に敷衍していて、多くの子供がそういった行動を意図してとるのであれば、多動症等で反秩序的にしか行動できない子供だって目立たない。
クラスには一人か二人存在していた、異様に活発でよく喋るちょっと抜けた子供が「障がい者」になることはなかったのである。
現代社会から逸脱してしまった人、逸脱せざるを得なかった人を、福祉や医療は「治療」し、現代社会の秩序へと送り返すことを職務としている。
しかし、そんな「職務」さえ、現代という特異な社会の歯車なのではないだろうか。
たまたま「現代」に適応できなかった人々を、それでも適応型に修正しようと試みる。
人間が変わったわけではなく、社会が変わっただけなのに。
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会は、かつて不自由さを感じていなかった人々に不自由さを感じさせているわけである。
第三章
第三章では「健康」が異様なほど普遍的価値を持つに至った現代社会について論じられる。
喫煙に対して寛容だった社会もいまは昔。
禁煙場所は劇的に増加し、それどころか、健康食品やランニングがブームになるほどである。
よもや健康であることは優越的な美徳であるとさえ認識されるようになっており、人々は競い合うように健やかな生活を手に入れようと藻掻いている。
そして、医療の側もそれを後押ししている。
次から次へと様々な指標や診断名が作成され、完璧な健康と対比した自分自身の位置を把握できるよう情報提供が為され、完璧な健康から離れているほど劣った人間であるかのような錯覚さえ患者に与えるようになってしまっている。
医療側に悪意はないとしながらも、結果的にそうなっていることを熊代氏は憂慮しているのである。
長寿が人生の目的化し、生きている間になにを為すかという観念の価値は後退が著しい。
健康リスクを冒してでも、何か「生きる」ことを高めるような活動をする自由。
そこに挑戦する意欲を、現代社会は巧妙に奪っているのではないかと本書は暗に指摘する。
コメント