気弱な男性と美貌の女性の格差恋愛モノという王道ではあるけれども凡庸な設定に、「電車男」ならではの独自性を与えているのがこの「インターネット感」なのですから、この有様では「恋愛物語A」としか呼びようがありません。
③恋愛ドラマ感がない
いわゆる「恋愛漫画(恋物語)」であるはずなのに、その恋愛が全く山あり谷ありではないのです。
端的に、二人の恋を妨害する要素がなさすぎます。
ドラマ版では「電車男」がオタクであることをエルメスに打ち明けてドン引きされるシーンなど、インターネット界隈と現実との差異を上手く使ったオタク恋愛物語独特の波乱があったりしましたが、そういった描写が一切省かれていて、逆に、なぜ残余の「非波乱万丈」部分に漫画版作者が価値を感じたのか全く理解できません。
特に、「一般女性」あるいは「一般よりもさらに高位の存在、高嶺の花の美女」として描かれるはずの「エルメス」があまりにも「電車男」にとって都合よく描かれ過ぎです。
連絡を取り合うのでもデートでも「電車男」に対して不思議なほど積極的でやたらにリードしますし、オタク趣味やインターネット掲示板を使っていることにも寛容すぎます。
私は別に、一般的普遍的な観点として女性がデートをリードすべきでないとも、オタクは迫害されるべきだとも言いたいわけではありません。
ただ、こと「電車男」においては、オタク男性である「電車男」を葛藤させ、苦難を乗り越えさせなければ何の面白みもないのに、そういった葛藤や苦難がほとんどなくあまりにスムーズに恋愛が進行してしまうのです。
「エルメス」側の心理描写としてもそうで、自分が付き合う相手として「電車男」はかなり異質なはずで、「エルメス」の周囲の「世間」からすればたいへん奇妙な存在のはず。
そこから「本当にこれでいいのだろうか」のような心理が生まれたり、「電車男」を試したりするような態度が生まれてもいいはずですし、恋愛独特の感情の起伏から「電車男」に却って冷たくしてしまったり酷いことを言ってもいいはずです。
そうでもなければ、「恋愛物語」である意味がないでしょう。
イチャイチャ甘々がテーマの作品でもないのであれば、やはり、恋愛物語ならではの一定の緊張感は最低限の価値を持った作品としての条件だと思います。
結論
長々と書いてしまいましたが、結論としては、これは「電車男」ではないし、そればかりか、最低限の水準を満たした「オタク物語」でもなければ「恋愛物語」でもないといったところです。
そんな感想を抱きながら後書き代わりの対談を読んだところ(漫画版作者の原秀則さんと若き日の武田真治さんの対談です。いまや筋肉体操で有名ですね。当時は舞台版で「電車男」を演じていたようです)、原秀則さんが致命的な発言をしていたので、やっぱりなと思いました。
対談での会話によると、原秀則さんは敢えて、原作のちょっとしたドロドロ感をカットして本作をイチャイチャ恋愛モノとして描いたというのです。
違います、「電車男」はそんな話ではないのです。
「電車男」は確かに純愛物語ですが、同時に「オタク」で「インターネット」で「エルメス」な物語であり、それ相応の生々しさや恥ずかしさ、ドロドロさがあったからこそ凡庸でどこにでもあるような純愛物語とは一線を画した成功を得たのです。
あの「電車男」をもう一度感じたい、あるいは、「電車男」なるインターネット史上に名を残した伝説の作品をいまからでも見てみたい。
そう思う人は、少なくともこの漫画版だけは避けて欲しいものです。
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