1. 世論
20世紀を代表するジャーナリストの一人、ウォルター・リップマンによって著された評論エッセイで、タイトル通り「世論」について取り扱っております。華々しい経歴を持つリップマンですが、「ステレオタイプ」という言葉を世に根付かせたと書けばその偉大さが伝わるのではないでしょうか。新聞・ラジオ・テレビという近代型メディアの登場と民主主義の組み合わせが人々の世界に対する「見方」をどのように規定していくのかという箇所に論の重点がおかれ、人々が抱いてしまうバイアスの傾向について現代にも通じる鋭い指摘を行っております。
「評論エッセイ」と表現しました通り、かなり散漫で体系だっていないのが決定的難点ですが、それでも1922年という発表年を考えるとその叡智は驚くばかり。「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という警句の示す通り、社会に対する考え方が纏まってきた時期に読むと「自分の考えなど車輪の再発明にすぎないなぁ」と思ってしまうこと請け合いです。
2. 目次
<上巻>
第1部 序
第2部 外界への接近
第3部 ステレオタイプ
第4部 さまざまの関心
<下巻>
第5部 共通意志の形成
第6部 民主主義のイメージ
第7部 新聞
第8部 情報の組織化
3. 上巻の感想
今日において、たいていのニュースは遠くからやって来ます。外国で起きている事件や外交についての政治的ニュースはもちろん、日本のどこかで起こっている犯罪や事故についても「身近な」と感じる機会は少ないのではないでしょうか。
こういった現象をもたらしたのは間違いなくメディアの発展でありまして、ニュースを解釈して自らの価値観に反映させるとき、私たちはその見たことも聞いたこともない状況や心理を自分の身近なものに置き換え、足りない情報を狭い経験から出る発想で補います。そうやって出来上がるにわか作りのリアリティ、それをリップマンは「疑似環境」と呼びます。私たちはニュースに触れるとき、その情報を直視しているのではなく、ステレオタイプを根拠に反射的な速度で立ち現れる「疑似環境」を見ている。それが物事の正しい理解を妨げるというのがリップマンの主張でありまして、これを打破するような機関なしには健全な民主主義が発展しないとリップマンは述べるのです。
これらのステレオタイプは自らの所属する階級によって異なっており、周囲の言動に強く影響を受けます。「見てから定義するのではなく、定義してから見る」という言葉が本著の中には出ていますが、心の中ですでに出来上がっている社会像に当てはめるような形でしか私たちはニュースを解釈できませんん。ニュースで語られる真実を虚心坦懐に受けとめ、そこから新しい価値観や社会像をつくり出していくことは稀です。
例えば、私たちの中には既に「国家」や「民族」、「国際関係」という肖像が深く刻み込まれております。この肖像の前において、領土問題を不動産取引だとみなすことは難しいですし、移民の流入を上京してくる田舎者と同じだとみなすこともまた難しいことです。
さらには、こうしたステレオタイプは自己擁護に使われるため脱却はさらに困難です。本書の中ではアリストテレスの奴隷制擁護論が挙げられておりまして、アリストテレスは人間それぞれに役割があるとして、その論の中で「奴隷に向いている人間」というものを肯定してしまいます。これを、古代ギリシャにおける罪深い奴隷制から罪悪感を覚える人々を解放するためのレトリックだとしてリップマンは断じるのです。自分たちが本当に行っていることから目を背け、ステレオタイプという歪な価値観で心理的安定を得る。これが人間の癖なのですから、ステレオタイプは所与の前提だといえるでしょう。有権者は合理的か(賢いか)、合理的でない(賢くない)としてそれでもなお民主制や代議員制は擁護可能かという議論は様々な角度からいまでも政治学界を賑わせる論題ですが、こういったステレオタイプ癖を所与の前提にしながらも、人々の実直な部分や善意の部分を活かせるような制度作りをすることが大事なのではないかと個人的には思います。
他にも、時間や空間、量の把握の難しさ(「1年」は具体的な時間の枠組みとして感じられるが、「99年」は「永遠」と同義だと思ってしまう。第一次世界大戦期のドイツにおける日本がシベリアからモスクワに攻め上がってドイツを助けるという妄想的世論、中国における『1500万人』の餓死者は『人口規模からすれば大したことない』と感じてしまって一人一人の苦しみに共感しづらい)など、私たちが具体的な感覚や経験の欠如によって陥りがちな錯覚が上手く言語化されているのが本書の面白いところです。
4. 下巻の感想
下巻でリップマンが強調するのは、人々が関心を寄せ、物事を具体的に理解できる範囲の小ささと民主制の理想とのギャップです。
上巻の感想でも述べた通り、人々の思考能力は身近な問題でしかそれを完全に発揮することはできません。村人全員が村のことをよく知っているような状態では確かに、村人たちは村のことについて具体的に考え、物事を決めることができるかもしれません。そして、それこそが当初、民主制の理想を思い描いた人々の頭にあった政治の姿だとリップマンは述べます。
しかし、国全体のレベル、あるいは外交を含めた世界全体のレベルとなると、マスメディアからもたらされる断片的な情報に自らの経験から成るステレオタイプを重ね合わせ、偏った想像力から状況を理解することしかできません。
しかも、自らにとって具体的な実感のない問題については、より象徴的な言葉や概念から受けるイメージで政治的賛否を判断することになります。
政治家はよく、「アメリカが誇る~」だとか、「○○(過去の偉人)の考え方と一致する」といった、誰もが共感できるキャッチフレーズや概念を自らの論理のフレームワークとしますが、これは上で述べた「イメージを通じた賛否」を利用するためです。ある問題につき、賛成側の政治家も反対側の政治家も、中身は真逆のことを言いながら同じようなフレームワークで問題を語ろうとするのはこのためです。総花的で万民の心に「良いこと」として植え付けられている概念から外れていない、むしろ、自分がそれに則っていると強弁することが「関心が薄く具体的な思考のできない」人々から支持を得るのに何よりも重要なことなのです。特に国政のレベルでは、「完全に身近な問題」だといえる論点はほとんど存在せず、多くの論点は人々にとって想像の世界の中で起こるような事物でしかありません。そうなれば必然、人々の思考はマスメディアによって伝達される印象に頼る部分が多くなり、具体的な思考の占める割合が減少します。だからこそ、政治家の側も印象論を強調するしかなくなってしまうのです。
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