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小説 「細雪」 谷崎潤一郎 星3つ

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細雪
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事実、中巻の最後、板倉は医者の拙い治療が元で亡くなってしまいます。医者の評判、という言葉が作中にも多く登場するのですが、身分が低い者は多少なりお金があっても良い医者に係れない、「医者の評判を知っている」という文化資本関係に参入できていないから、という姿をありありと見せつけながら板倉は死んでいくのです。

旧習に囚われた零落の蒔岡家、その令嬢である雪子が縁談に苦戦する様子を描いた上巻。新しい時代を代表するような妙子の職業観や恋愛と、それを快く思っていない、自分では「常識人代表」のつもりの幸子が描き出された中巻。

下巻では、雪子と妙子、それぞれの意味深長な結末が描かれます。

6. あらすじ(下巻)

板倉の死により、激しい恋に終止符を打たれた妙子。だからといって奥畑への慕情が復活するはずもなく、彼には憐憫の気持ちしかないといって、結婚せず職業婦人になる気である。

そんな妙子をよそに、雪子のもとへ2年ぶりの縁談がやってくる。話は珍しく本家からもたらされたもので、蒔岡家の長女鶴子の夫である辰雄が、その姉から紹介されたというもの。相手は岐阜県大垣に住む沢崎という男で、幸子は雪子を引き連れて大垣まで行くものの、せっかく「薪岡家の令嬢」が来るというのに、迎える側の準備は粗末なもので、また、沢崎の態度も雪子を値踏みするかのような、不快なものだった。

幸子が相手方の態度に心情を乱され、憤慨していたところ、追い打ちをかける手紙が先方から届く。なんと、先方がこの話を断ると言ってきたのだ。雪子が相手側から縁談を断られたことは初めてであり、本家が用意した縁談にも関わらず、舐め切った態度をとられたうえに一方的な断りを入れられたことは幸子のプライドを激しく揺さぶった。しかし、夫の貞之助はこんなものだと冷めきっている。そして幸子も徐々に、ようやく冷静に事態を理解し始めていく。もはや蒔岡家の三女など、斜陽の旧家の行き遅れの女など、世間はまともに取り合っていないのだ。本家でさえ、そう思っているのだ。

一方、憐憫の気持ちしかない、と言っていた妙子は、事件を起こして実家から勘当された奥畑のもとへ頻繁に通うようになっていた。舞にも人形作りにも以前ほどには熱意を持てない様子の妙子。奥畑の実家の威光があってこそ妙子と奥畑との交際を認めていた本家にとって実家を勘当された奥畑と関係を持つという行動は受け入れられず、妙子は蒔岡家を絶縁されてしまう。

そんな中、雪子には早くも次の縁談が舞い込む。見るからに聞くからに良さげな案件。もう、つけあがったりしない。そんな強い覚悟で縁談に臨む幸子だったが……。

7. 感想(下巻)

ヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、激動の時代が始まりを告げる中、旧習に倣ってお見合いを続ける雪子と、職業婦人や身分違いの恋など新しい生き方を模索する妙子。二人の結末と、それを見つめる幸子の心情と時代の相克が鮮やかに描かれます。

雪子の縁談がこれ以上ない無惨な終わりを迎える、というエピソードから始まる下巻。中巻の感想では幸子の奢り、蒔岡家の価値や時代を見誤った勘違いについて述べましたが、まさにそういった、幸子の主観と世間の客観とがぶつかり合うエピソードであり、幸子に感情移入してきた読者としては大きな悲劇的カタルシスとなり、幸子の言動を冷静に観察してきた読者としては、してやったりそれ見たことかという気持ちになる場面です。

少し財産があるだけでその名前は轟いてなどいない零落旧家が蒔岡家なのだということ、そして、その蒔岡家の行き遅れた30半ばのお嬢さんが雪子であり、そんな女性を縁付かせなければならないという高く険しい目標に自分たちが挑戦していることにようやく気づくのです。

現実を認識し始めた幸子が地の文で吐露する悔しさと惨めさ。自分たちに価値はない。それを認めたくないが認めなければならないという気持ち。そんな心情の変化が印象に残ります。「ダメな自分(たち)」を受け入れなければならない葛藤、というシーンは、いつの時代も、どんな年齢の人にとっても、人生における痛切な瞬間なのだと感じますね。

そうやって、ようやく幸子が「まともさ」を獲得しかけているところに、良い縁談が舞い込んでくる、というストーリーを構成するのがまた谷崎の嫌らしいところ。子持ちで40代だが、明るく洒脱で、結婚すれば義妹になる妙子の奔放な生き方にも寛容、給与も資産も十分。そんな橋寺という人物と蒔岡家との関係がとんとん拍子で良くなっていく過程には再生への希望を感じさせます。

だからこそ、希代のストーリーテラー谷崎はこの縁談を破談にさせてしまいます。何もかも上手くいくと思った矢先、橋寺から一本の電話が蒔岡家に入るのです。家に女中以外の人間が雪子しかいない状況だったため、雪子が応対に出ます。(現代の感覚からすれば信じられませんが)電話でのやりとりが極端に苦手な雪子は橋寺に対して憮然とした受け応えをしたうえ、橋寺からのデートの誘いを断ってしまいます。橋寺は憤慨し、縁談は一気に瓦解。上中巻と、この雪子の「本当に何もしない我儘さ」が時おり顔を出していたのですが、ここで噴出させてくるのがこの物語の妙味でしょう。自分では何もせず、意見も言わないくせに、自分の思い通りにならないとふてくされて、周囲の人間に気を遣わせることで事態を思い通りにさせる、そんな雪子の陰気な我儘さがこれまでの縁談でも目立たなかったのは、幸子や周囲の人間が縁談を表立ってリードしており、その役割を積極的に引き受けていたからです。いざ縁談がまとまりかけ、雪子本人と相手方との直接のやりとりが試される場面が訪れ、ここで「雪子の性格」という丹念に用意された伏線が爆発する。論理的には予想できたはずなのに、物語の巧みな流れに目をくらまされて気づかない。読者をあっと言わせて、してやられたと思わせる技量は純文学ながら推理作家のそれといっても過言ではありません。

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