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小説 「悲しみよこんにちは」 フランソワーズ・サガン 星4つ

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悲しみよこんにちは
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1. 悲しみよこんにちは

20世紀後半に一時代を築いたフランスの小説家、フランソワーズ・サガン。その代表作が処女作である「悲しみよこんにちは」です。1954年に出版されるとたちまち世界的なベストセラーとなり、サガンをしてデビュー作でいきなり一流作家の仲間入りを果たさせた名作となっております。

そんな高い前評判に違わず、素晴らしい小説でした。非の打ちどころのない情景描写と心理描写に魅了されます。河野真理子さんの翻訳も絶品で、小説における美しさや切なさ描写の極致を極めた作品の一つと言っても過言ではないでしょう。

フランソワーズ サガン (著), Francoise Sagan (原著), 河野 万里子 (翻訳)

2. あらすじ

主人公のセシルは17歳。父親であるレエモンとの父娘家庭育ちである。といっても、レエモンは実入りの良い職業についていて、もう40歳を超えるというのにパリの社交界で女性をとっかえひっかえしている奔放な男性。そんな父に連れられ、セシルも遊びばかりを覚えてこの年まで育ってきた。

17歳の夏、セシルは父とともにコート・ダジュールの別荘を訪れている。父の愛人であるエルザとの仲は良好なうえ、海岸ではシリルという大学生と出会って恋仲になった。何もかもが完璧な夏になる。そんな予感がしたまさにそのとき、ある女性の闖入がセシルの夏に暗い影を落とす。

その女性の名前はアンヌ。父とは仕事上の知り合いで、父が母と離婚した直後、一時的ではあるもののセシルはアンヌにその身を預けられていた。アンヌは年のわりに美しい女性だったが、父の周辺人物にしては珍しく堅物で、礼儀作法や勉学の奨励にうるさく、セシルがバカロレア(大学入学資格試験)に落ちていることを遠回しに責めてくるような人物だった。

アンヌは嫌いじゃないが、自分たちの生活には合わない。そう感じていたセシルに、レエモンは衝撃的な告白をする。レエモンはエルザと別れ、アンヌと正式に結婚するというのだ。

あの遊び人の父が結婚!しかも、よりによってあのアンヌと!

自分の生活、あるいは自分自身そのものが壊されていくような予兆を感じたセシル。このままではいけない。セシルは作戦を練る。それは、アンヌと父を別れさせるための狡猾で後ろめたい作戦だった......。

3. 感想

流麗な文章にただただのめり込んでいくばかりです。まずは冒頭の文章を紹介しましょう。

ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。その感情はあまりにも完全、あまりにもエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみと言うのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。

この恍惚とするくらい美しい文章から始められる小説がこの世にいくつあるでしょうか。もちろん、始めようとすることは容易いでしょう。しかし、本作の凄いところは、終始このたおやかな文体と文章表現を維持しながら最後まで物語をハイテンポで展開させ続け、始めから終わりまで整合性のある一つの小説作品として完結させているところなのです。短い詩の一節としてならまだしも、文庫本で200ページ近くこの文章レベルが維持されるのですからまさに圧巻です。

もう一つ、最序盤の名文を紹介しましょう。

わたしは明け方から海に行き、ひんやり透きとおった水にもぐって、荒っぽい泳ぎ方で体を疲れさせ、パリでのあらゆる埃と暗い影を洗い流そうとした。砂浜に寝ころび、砂をつかんで、指のあいだから黄色っぽくやさしいひとすじがこぼれ落ちていくにまかせ、〈砂は時間みたいに逃げていく〉と思ったり、〈それは安易な考えだ〉と思ったり、〈安易な考えは楽しい〉と思ったりした。なんといっても夏だった。

くらくらするくらいの陶酔感を覚えてしまいます。著者のサガンは17歳でこの文章を書いたのですが、17歳でこの文章を書けるのは天才以外にあり得ないと思わされますし、それでは並みの小説家がベテランになればこれを書けるかというと、いや、「若さ」によってでしか書けないとも思わされます。若き天才だけが書ける超越的な文章だといえるでしょう。

さて、良文の紹介はこのあたりにしておいて、物語そのものの感想に入りたいと思います。

優しい遊び人の父と、父とよく似た気質の父の愛人、その二人に囲まれ、奔放な性格の娘セシルの夏は充実した始まりを迎えます。絵に描いたような保養地でのバカンスは読んでいるこちらがどうしようもなく羨ましくなるくらいで、さらに、イケメン大学生シリルと出会って恋に落ちるのですからまさに完璧以外の言葉がありません。若いうちにこんな体験ができるなんて素晴らしいですよね。美しいコート・ダジュールの海岸を美しく描き、イケメン大学生をイケメンに描き、父であるレエモンやその愛人エリザの遊び人としての危険な大人の魅力もまた丁寧で背徳的な筆致で描く。下手すれば非常に陳腐になるところを、薫りたつような気品を文章に持たせてサガンは描きます。本当に全てが上手いのです。

そして、あらすじにも記載した通り、堅物の結婚相手候補アンヌが現れることでこの完璧な夏は崩れていきます。

いえ、完璧な夏が崩れる、というよりは、完璧な人生が崩れていくといったほうが良いでしょう。これまで奔放な生き方をしてきて、その価値観がアイデンティティになっている少女セシルにとって、勉強と礼儀作法重視の価値観の強制というのはまさに人生の崩壊、自分自身の喪失と同等の衝撃をもたらします。悲劇的に崩れていく人生の展望について少女が内心で吐露する美しい溜息混じりの悲嘆描写も素晴らしいんですよね。セシルが受けた衝撃が上手に描かれることで、セシルが実行しようとする陰惨な計画の動機としての悲しみが非常に説得力を持ちます。これほどの衝撃を受けているのなら、確かに残酷な作戦の一つでも立てて父とアンヌを別れさせようと思うだろうという、これは自然な流れなのだという認識を読者の中につくるのが上手いのです。

セシルが実行する作戦というのはすなはち、自分の彼氏シリルと、父の「元」愛人となったエリザに偽の恋人を演じさせてその姿を父に見せつけ、そうすることで父の嫉妬をかきたて、父の心をエリザに戻してやろうという作戦です。プライドの高い遊び人の父は、自分と別れた女が平気な顔して新しい男を見つけ、自分の前でいちゃいちゃしているなど耐えられないだろうとセシルは踏むわけです。

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