ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの作品。
「果てしない物語」と共に彼の代表作として扱われることが多い著作ですが、日本では「モモ」の人気が非常に根強く、ドイツ語版の次に発行部数が多いのは日本語版だそうです。
「効率性」の名のもとに人間的な温かみのある要素がことごとく「悪」とされ、それでいて「効率化」を突き詰めたのに全くといっていいほど時間に余裕がない。
そんな現代社会を風刺した童話、という内容が日本人受けするのかもしれません。
全体的な感想としましては、現代社会の労働観や時間不足についての皮肉になっている個々の場面は楽しめたものの、物語の総体としてはイマイチだったという印象。
最も皮肉が効いている第6章や、近代的学校教育に対する批判精神旺盛な第13章、第16章の一部だけ読めばそれでよいと思えてしまいます。
あらすじ
舞台はローマのようでローマではない街。
主人公のモモは孤児で、街はずれの円形劇場跡に住んでいる。
両親はおらず、そのままでは食べる物にも困る立場のモモだけれど、モモの周囲にはいつも人が集まって温かな交流が結ばれており、モモも人の輪の中で幸せに暮らしていた。
そんなある日、街に灰色の男たちが現れるようになる。
灰色の男たちの正体は「時間貯蓄銀行」の行員。
彼らは言葉巧みに住民たちを欺き、「無駄な時間」を省くよう住民たちに促していく。
灰色の男たちによって、次々と「効率化」されていく住民たちの生活。
丁寧に接客をしたり、両親の世話をしたり、病身の他者を思いやったり、趣味を通じて友人と交流をしていたあの時間。
あの「無駄な時間」こそ幸せな時間だったことに気づかないまま、街の住民たちは人生の時間を「時間貯蓄銀行」へと捧げていく。
時間泥棒たちに大切な価値観を奪われてしまった街を、モモは救うことができるのだろうか......。
感想
随所に感銘を受ける点があるのは間違いありません。
特に推したい場面は、第6章、床屋のフージーが灰色の男に騙されていく場面です。
床屋では丁寧な接客を心掛け、家では両親の世話を欠かさず、病気の女性には花を届け、社交的な趣味も楽しんでいたフージーという人物。
彼がこういった生活に満足していたかと言えば、そうではありません。
貧乏で何物でもない一介の床屋である自分自身に、憤りと失望を感じていました。
そんな心の弱みにつけ込んだのが、灰色の男たち。
「床屋では丁寧な接客を心掛け、家では両親の世話を欠かさず、病気の女性には花を届け、社交的な趣味を楽しむ」ことに対してかかっている時間を電卓ではじくと、「あなたの人生はこれらの活動だけで終わってしまうのです」ということを定量的に示していきます。
具体的な数字を出されたうえで「人生の総決算」をされてしまったフージーは驚き、「無駄」を省いて効率的に生きようと決意します。
すなはち、接客や両親の世話は手抜きをして、病気の女性に花を届ける回数を減らし、趣味もあまり行わないようにする。
全てを「時短」して効率化を追究し、いつも死んだような表情をしてせかせかと動き回ることで、余剰「時間」を創り出すことに一生懸命。
フージーの生活はそんなふうに変わっていきます。
まるで令和2年の日本みたいですよね。
本作は1970年代に著されており、当時の状況に対する風刺をエンデは書いたつもりなのでしょうが、まずます酷くなっているのが現代社会というわけです。
個人的な解釈ですが、エンデの言いたいことはこうでしょう。
「いい仕事、いい人間関係、いい趣味」こそが人生の本体であって、そこを過度に「効率化」して別の時間をつくってみても、その時間で行われるのは空虚なことである。
あるいは、いくら「効率」を追いかけたって、時間への渇望には際限がない。
人生の全てを「いい仕事、いい人間関係、いい趣味」に使っていこうとしていた状態こそが正しく、それらに費やしている時間ことが重要だったのに、それらをつまらないものだとして「圧縮」してしまえば、当然、人生はつまらなくなる。
それは、人生の本質的な部分を削って、なんでもない部分を増やそうとする営為だから。
フージーが愚かな「時短」や「効率化」ばかりに走って人生の本質を見失っていく演出は実に見事です。
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