つまり、他者のために死んでいく決断をするところからしか始まりません。
不条理や理不尽からは逃げたっていい、でも、何一つ不条理や理不尽に挑戦しないあなたって、一体何者?
本来引き受けなくていい責任を引き受けて始めて、個々の人間の独自性が立ち現れます。
こうした感性は通常、人生の中でゆっくりと涵養されるものです。
しかし、本作においては事情が違うのです。
エヴァンゲリオンによってしか使徒を倒せないにも関わらず、エヴァンゲリオンを操作できるのは選ばれた一握りの子供たちだけ。
だから、彼/彼女らに責任ある行動ができる大人になってもわらなくちゃいけない、それも、とんでもない速度でその域まで人間性を高めてもらわなければならない。
それゆえ、本作では周囲の人物が寄ってたかってシンジを大人にしようとするのです。
そして、圧倒的なプレッシャーを受けるシンジが陥る極度の心理的葛藤と、それを乗り越えた先にある急速な人間的成長。
その軌跡が短い時間にぎゅっと凝縮され、しかも、その過程や結果が人類の運命を賭けた大勝負の過程や結果として描かれる。
少年の成長と世界の運命が生々しいがまでに共振するという構成が、本作の迫力を否応がなしに増しているのです。
もちろんそれは「少年の成長と世界の運命が生々しいがまでに共振する」という非現実的な設定に著しいリアリティを付与し、世界の運命を賭けた現実の戦闘を見ているかのように錯覚させる庵野監督の演出手法の見事さにも依っています。
本当に、あまりにも演出が凝っていて、画面に釘付けになるんですよね。
特に印象的だったのは、最終盤に決行される「ヤシマ作戦」におけるシンジとレイのやり取りです。
圧倒的な防御力を誇る使徒に対して、ミサトは連射性能はないけれども高火力な兵器による狙撃で対抗する作戦を立てます。
もし、一撃目の狙撃を外して、敵がすぐに反撃してきたら、(対抗手段がない)自分は死んでしまうのではないか。
そんな台詞をシンジが発した直後「私が初号機を守ればいいのね」とレイは口にします。
無防備な狙撃手であるシンジに対して、そのときは私が先に死ぬのだと、そういう作戦なのだとレイが告げる。
こうなればもう、シンジは何も言い返せなくなります。
覚悟を決めている味方に対して、なんて馬鹿なことを言ってしまったんだろう。
そんな無言の後悔が画面を流れる場面には胸を打たれます。
そして、シンジの周囲を取り巻く人物が時おり見せるシンジへの信頼や情愛も、まさに時おりだからおこそ物語の中できらめくような効果を発揮します。
お気に入りなのは、ミサトの同僚である赤木リツコ(あかぎ りつこ)がシンジについて発言する場面です。
シンジがエヴァに乗った理由について、リツコは「人の言うことに素直に従うのが彼の処世術」と述べるのですが、その後方でミサトは厳めしい顔と沈黙でその言葉に反抗します。
エヴァに乗る気になったのは、レイをエヴァに乗せないための、オトコの決断なのだ。
乳臭い処世術なんかじゃない。
ミサトはそれを知っているからこそ、リツコの発言に反感を覚えているような仕草をしたのだと思います。
さて、本作のメインテーマについて語るのはここまでにしておいて、ここからはテーマ外で気になった点を3点ほど書いていこうかと思います。
最初に述べるのは、本作の構成が「単一神話論」における神話の構成になっているということ。
「単一神話論」については「千の顔を持つ英雄」の感想記事で取り上げておりますが、ここでは該当する部分のみを引用しておきます。
英雄は何者かによって日常とは異なる未知なる領域に導かれ、そこで助力者から強大な力に対抗できる何らかの力を得たうえで異世界との境界に立つ門番に出会い、その門番を倒すか躱すかして異世界へと入っていく。
しかし、異世界というのは正確には英雄自身の「内側」を表している。その神秘的な空間の中で英雄は様々な試練に立ち向かいながら知恵と勇気で勝利を収めていく。その過程で、「真理」は自分の中にあるのだと英雄は気づいていく。最後の戦いに勝利した英雄は女王or女神と結婚する。
世界に数多存在する神話には全て共通の構図がある、というのが「単一神話論」の主張することろで、引用文は「千の顔を持つ英雄」において語られている神話の典型的構図を私なりに解釈して書いた箇所の序盤部分です。
つまり、典型的な神話の始まり方というわけです。
本作の冒頭、シンジはミサトによって第3新東京市へと導かれ、そこで使徒に対抗できるエヴァンゲリオンという力を得ます。
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