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教養書 「コラプション なぜ汚職は起こるのか」 レイ・フィスマン他 星3つ

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コラプション
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1. コラプション なぜ汚職は起こるのか

ボストン大学の経済学者レイ・フィスマン教授とカリフォルニア大学の政治学者ミリアム・A・ゴールデン教授による「汚職」についての共著。二人とも異なるアプローチから「汚職」を研究してきたこの道の大家であり、それでいて本書は一般向け(といっても「汚職」の普遍的構造に関心を持つ「一般」向けですが)の著作になっております。

学術書ではないことから事例中心の記述となっておりますが、個々の汚職を個人の道徳的資質の問題として矮小化するのではなく、様々な汚職の事例を「均衡」という思考枠組みの中で捉え、学術的な視点から論じていくのはまさに本格派といったところ。度肝を抜かれる面白さとまではいきませんでしたが、この分野に興味がある方にとって知的な興奮をもたらしながらも肩の力を抜いて読める本だといえるでしょう。

2. 目次

第1章 はじめに
第2章 汚職とは何だろう?
第3章 汚職がいちばんひどいのはどこだろう?
第4章 汚職はどんな影響をもたらすの?
第5章 だれがなぜ汚職をするのだろうか?
第6章 汚職の文化的基盤とは?
第7章 政治制度が汚職に与える影響は?
第8章 国はどうやって高汚職から低汚職に移行するのだろうか?
第9章 汚職を減らすには何ができるだろうか?

3. 感想

冒頭で述べた通り、本書は汚職を「均衡」の結果として捉えます。それでは、汚職についての「均衡」とはどういう意味でしょうか。

端的に言えば、汚職が既に蔓延している環境では(貰う側も払う側も)誰もが汚職をしてしまうし、汚職が滅多に起こらないような環境ではやはり誰も汚職をしないということです。

同義反復のようなことを言っているようですが、これこそが本書における(あるいは学術的な見方における)重要な視点となります。

例えば、公共事業を受注するのに賄賂が必要な環境であれば、その環境下では殆どの企業が汚職に手を染めるでしょう。そこには公共事業を受注して儲けたいという積極的な理由もあるのでしょうが、公共事業の受注がなければ普通の中小零細企業は生き残れないため家族や従業員の雇用を守るため泣く泣く賄賂を行うという場合もあるでしょうし、まさに賄賂をしなくては公共事業を受注できず生き残れないという理由で、賄賂をしないような清廉潔白企業は倒産し、賄賂を行う企業だけが残るのです。

良い学校に入学するため、あるいは医療を受けるために賄賂が必要だという場合もそうです。積極的にしろ消極的にしろ賄賂を行った者だけが良い教育を受けて社会における優位を占めたり、あるいは医療を受けることで生物学的な意味で文字通り生き残ったりするため、結果的に賄賂が社会に蔓延したままになります。

そして、そんな環境で賄賂を行う人々を道徳的に糾弾できるでしょうか。答えは否となるはずです。あなた自身やあなたの大切な人が命の危機に瀕しているとき、医者に賄賂を払えば命が救われるならば誰だって賄賂を払うでしょう。教育を受けるのだってそうです。基礎教育から高等教育まで、それを受けるか否かで生涯年収が大きく変わります。もっと言えば、賄賂を払わなければ無実の交通違反切符を切られる社会において日常的に賄賂を払わないことは難しいでしょう。仕事に行くのにも買い物に行くのにも(先進国の一部大都市を除けば)、自動車の運転が必要なのですから。

逆に、汚職がほとんどない状況では賄賂などの手段を使って便宜を図ってもらおうとする人間は少なくなります。メディアや市井の人々が汚職に対して目を光らせていて、汚職が発覚すればあらゆる社会的地位を失いますし、汚職が珍しいためにそれが発覚する可能性も高いからです。まさに、社会的に生き残るという目的意識のもとで汚職をしないわけです。こちらの感覚は読者の皆様にとっても容易に理解できるでしょう。

さて、汚職はそういった均衡の中にあるため、汚職が蔓延している国はなかなかそこから脱しずらく、汚職が少ない国が高汚職国に移行する可能性も非常に低いものになります。本書でも汚職と豊かさの相関は指摘されており、確かに先進国と呼べるほど豊かになればほとんどの国で汚職は減るのですが、中~低所得国程度だとその国その国に存在する均衡(一般的には「(汚職)文化」と呼ばれているかもしれません)により汚職の程度にはばらつきがあります。中所得国であればチリが低汚職国として本書ではよく紹介されますが、その一方で、ルーマニアやウクライナ、豊かだった頃のベネズエラなんかは高汚職国として知られています。先進国の中ではスカンジナビア諸国が低汚職で、イタリアが高汚職国としてよく引き合いに出されます。

また、国の中でも汚職蔓延度合いが地域によって異なっていることもあり、例えばインドでは州ごとにかなり汚職の程度が違うこともデータで示され、それは概ね所得に比例するものの、一部には貧困ながら汚職が少ない州があったりします。

こうした、経済発展度合いと汚職の程度の比例関係は、低所得だから汚職が多いのか(政府財政が弱く、政府から十分な給料を貰えない役人や軍人、警察官が一般市民や一般企業から強請って給料を補填する。国民が低所得だから汚職政治家による票の買収が容易い等)、汚職があるから低所得なのか(国民が起業したり、海外から企業が投資したりしようとする際、役人が中抜きしまくるのでハードルが高くなる、公共事業や教育、海外からの支援を政治家や役人が中抜きして経済発展の基礎になるインフラやサービスを行き渡らせない等)を判定するのが難しく、また、ごく例外的ではあるものの存在する、富裕高汚職国や貧困低汚職国についても様々な関係性の中で不思議な均衡の中にあるという説明を個別にするしかありません。汚職と経済発展は複雑な相互関係の中で絡み合っていて、しかも、例外もあるという難しいものですが、本書ではまさにその点を丁寧に説明しているので読み応えがあります。上述した()内の内容や事例が詳述されているイメージです。

そんな事例たちの中でも、私が汚職についての一般的普遍的理論という点で特に面白いと感じた例を二つ挙げたいと思います。

一つ目は、「ある種の汚職はとりわけ有害なのだろうか」という節で紹介されている、「集権型対分権型汚職」です。例えば、起業をするときに賄賂が必要だとして、賄賂を企業に関係する様々な部局に支払わなければならないのか、それとも、たった一個人(一組織)にのみ払えば事は済むのかという話で、結論からすると「集権型」つまり一個人にだけ支払う習慣のほうがまだマシだという事例です。

これはつまり、賄賂を貰う権利を一人が独占しているとき、その一人は人々が企業を諦めない程度には安く、ポンポンと支払ってしまえるよりは高い金額、つまり、起業家たちがぎりぎり支払う金額を賄賂として設定するというもので、「市場との対話」が生まれるわけです。

しかし、複数人がバラバラに賄賂を取るとなると話は違ってきます。「こんなにふっかけたら相手は起業を諦めるかもしれない」と自分が遠慮した分は他の汚職関係が賄賂額を吊り上げることで攫ってしまうのです。「遠慮した人が負け」ゲームが行われる結果、賄賂は際限なく高くなり、賄賂を貰う側にとっては貰う機会の減少、払う側にとっては起業等の自由な行動の制約が起こって全員にとって不幸な結果となります。

二つ目は簡単な事例で、汚職はその心理的な効果から貧困層により不利に働くというものです。警察官による汚職が蔓延している国で、高級車と普及車で交差点に進入する実験を行ったところ、高級車は警察官に止められて違法な違反切符を切られる(違反行為を行っていないのに違反切符を切ろうとしてそれを回避するために賄賂を要求する)機会が遥かに少なかったそうです。これはつまり、高級車に乗っているのは金持ちで、金持ちは政官界と繋がりがある人物の可能性が高く、汚職をしようとしたことがバレてしまったり、まさに「有力者」に対して違反切符を切ろうとしたことで自分が職を失うかもしれない恐れが警察官にあったためだと結論付けられています。社会的地位が低く、したがって抵抗力が小さい人ほど汚職の餌食になる、そんな構造が存在するのです。

このように様々な事例が紹介されていくのですが、本書の後半部分では政治制度との関わりも議論されます。本ブログではよく政治関係の書籍を取り上げておりますが、ここで強調されている政治制度と汚職との関係の「なさ」はかなり意外でした。

つまり、専制政治だろうが民主政治だろうが汚職の蔓延度合いには影響がなく、党派的競争や大統領制or議院内閣制、小選挙区制or比例代表制、中央集権or地方分権、任期制限や政治資金規正の在り方まで全て汚職の蔓延度合いに決定的な影響を与えないという点です。まさに政治学の中でその効用について議論が行われている中心的な分野においてこの「汚職」という政治的営みがそれらの影響を受けていないというのは衝撃的です。

そして、最終章では最も肝心なところ、どうやったら汚職が減るのかという点が語られます。といっても、重要なのは中産階級の台頭か、政治的リーダーシップもしくは外圧による急速な変革だということで、あまり日本とは縁がない代物が多いです。中産階級の台頭はメキシコの例、政治的リーダーシップはジョージアやシンガポールの例、外圧であれば香港の例が挙げられています。

しかし、第九章の冒頭で語られている公務員給与と汚職の関係はやや日本の現状とも関係があるのかもしれないと思いました。公務員給与が高くても汚職がなくなるかどうかは分からない(慣習や監視システムによる)が、公務員給与が低いと汚職が起こるという話です。日本は国家公務員の給与が民間市場と比較して低く抑えられており、最近は官僚志望者が減り続け、いざ官僚になっても外資系企業やベンチャーへの流出も酷いという話です。もちろん、独特の組織構造や業務の質によるやりがいのなさもあるのでしょうが、そういった仕事のやりがいや働き方、そして給与という面も含めて国家公務員制度を見直す必要があると思います。官僚が悪事を働くことは良くないことですが、制度や労働市場との関係を無視して個々の官僚あるいは官僚という属性を叩くだけではますます官僚の質は低下するでしょう。待遇が変わらないのにバッシングだけがひどくなるならばその役割を担いたいと思う人は減るはずですし、優秀な人ほど他に受け皿があるので官僚を避けるようになるでしょう。

ちなみに、公務員による汚職が蔓延している国(インドなど)では汚職による儲けを企むような卑怯な気質の人が公務員を目指し、逆に清廉な国(デンマークなど)では清廉な人物が官僚を目指す傾向にあるという分析が本書に記されています(そうして「汚職蔓延」や「清廉」が固定化される。一種の均衡)。果たして、これからの日本はどちらに向かうのでしょうか。汚職で一儲け、なんて思うのが普通の国にはなって欲しくないですが、民間市場も含め適切な人に適切な待遇を振り向けられなければ、今後、汚職も増えていくでしょう。汚職でしか儲けられないなら汚職で儲ける。それが人間というものです、ということが本書では事例を通じて繰り返し強調されています。

4. 結論

まとまりには欠けますが、なかなか珍しい「汚職」を扱った書籍として、それも、著名な教授が記したアカデミックな視点のある著書として、なかなか面白い事例を提供してくれる本になっています。この分野に興味があるのならばお薦めです。

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