第3位 「博士の愛した数式」小川洋子
【記憶を失う博士との心温まる交流】
・あらすじ
「あけぼの家政婦紹介組合」で働く「私」は組合の紹介を受け、ある家庭に派遣されることになる。
義弟の世話をして欲しい。
依頼主の老婦人はそう言って、離れに住む老人のところで働くよう「私」に要請した。
その老人こそ、数学の天才である「博士」であった。
「博士」のところへ派遣されるのは「私」で九人目。
多くの家政婦が続かなかったのには訳がある。
それは、「博士」の記憶が80分しか維持されないから。
記憶は80分しか維持されず、常に数学に熱をあげている。
そんな変わり者の「博士」に最初は戸惑う「私」だったが、「私」の息子である「ルート」と「博士」との交流をきっかけに、「私」は博士の優しさと数学の魅力に気づいていく。
ささやかだけれど、かけがえのない幸福に満ちた日常。
しかし、博士が記憶できる時間はだんだんと短くなっていて......。
・短評
非常に味わい深い、大人の小説でした。
「博士」も「私」も、そして物語の鍵となる老婦人も、決して恵まれた境遇にはありません。
将来を嘱望される天才だった「博士」は交通事故により記憶力を失ってしまい、絶望の中で数学の懸賞問題を解き続けるだけの生活を送っています。
かたや「私」も望まぬ妊娠から母子家庭となり、家政婦として働くことで生計を立てています。
そんな「博士」と「私」、そして、「博士」から「ルート」と名付けられた「私」の息子の関係が、丹念で柔らかい筆致で描かれ、物語の世界に引き込まれていきます。
80分しか記憶がもたないため、「私」や「ルート」とはいつも初対面になってしまう「博士」。
そんな「博士」はいつも最初に靴のサイズや誕生日を「私」に訊き、「私」が回答する平凡な数字に対する返答によって「私」を数学的感動の世界に誘うのです。
決して社交的とはいえない「博士」の不器用だが素朴な生き方。
「博士」との応対に気を遣いながら、少しずつ距離を詰めていく主人公母子。
器用ではない生き方の中にある、大人になりきれなかった人々の悲哀。
綺麗だが冷淡にも感じられる「大人のやり方」に秘められた、他者への優しさという情熱。
その二つが巧みに交じりあうさまが何ともいえない波になってページをめくらせていきます。
そして、最後に明かされる老婦人と「博士」の関係も、苦く甘く読者の心に残ります。
事故のまえ、そして事故のあと、二人がどんな気持ちで心を通わせ、生活してきたのか。
人生はうまくいかないこと、納得できないことばかりですが、それでも想いを絶やさないことの尊さが、誇張しすぎるわけでも皮肉に陥るでもなく、さりげなく描かれているのが印象的でした。
あえて欠点を挙げるならば、一介の家政婦がここまで数学に興味を持つことは不自然であること。
加えて、子供にしてはすこし「できすぎ」な「ルート」の存在。
そして、最後に時間軸が飛びすぎる点でしょうか。
設定のわりに決して嘘っぽさが少ない小説ではあるのですが、それでも終盤はややファンタジーめいていて、もう少し現実感のある流れでもよかったのではと思います。
それでも、心が温かくなり、生きる勇気をもらえる作品です。
大人として決して楽ではない人生を生きているすべての人にお薦めできます。
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