あの時代には人生経験が少ないからこその独特の感性があって、世界の感じ方も大人になったいまとは全く異なっていたはずです。
身体能力や思考力、精神性を飛躍的に上昇させられるのもその頃だけですし、その機会をどう使ったかで人生は大きく変わっていきます。
また、かなり純粋な意味で「男女分け隔てなく接する」ができたのも、少年時代のある時期までではないでしょうか。
その意味では、いま現時点の特性と潜在性を持った自分というのは一秒一秒「存在消滅」しているわけで、「死」を真剣に見つめようとしている人ほどこの失われゆく一秒一秒についての感覚が敏感なっていくはずです。
毎秒死んでいく自分の一部分に対してもっと繊細であるはずだ、と言い換えることもできるでしょう。
高村さんは「死」について恐怖し考えているというわりには、意図的にゆっくりと生きているように見えます。
もっと、一秒一秒訪れている部分的な「存在消滅」に敏感であれば、毎秒毎秒に対して強い恐怖を感じるわけで、それに抗うために生まれる行動はもっと熱量や俊敏性のある行動になるのではないでしょうか。
人生を分割せず、ひとかたまりの「人生」としか見ていないからこそ、「死」もひとかたまりの現象としか見なすことができず、却って「死」の強烈な威力とは裏腹なゆっくりとした考えに浸っていられる余裕を持ててしまっているのではないかと思います。
ある日突然に「死」が訪れるのではなく、毎日毎日、ゆっくりと「死」が行われている。
そう考えることができれば、もっと「熱中」や「希望」への執着が生まれて、何か「普通」への手がかりが掴めるかもしれません。
もちろん、高村さん自身が「死」の恐怖と戦いながら過ごす小屋生活に満足していればそんな意識を持つ必要はありませんが、それ以外の生活様式や思考様式に少しでも興味があるならば、まずは「死」を分割して、いつか起こる現象なのではなく、いまここで起こりつつある現象なのだと認識してみるのもよいかもしれません。
(これは「真でないものを真だと信じること」ではないでしょう。コップに入った飲み物を飲んでいくと、コップの中の飲み物は「有」から「無」に突然移行するのではなく、少しずつ「存在消滅」していきます。人生全体をそういった緩やかな「存在消滅」に置き換えて考えられるのではないでしょうか)
さて、色々書きましたが、こんな書籍を読むということは、私自身もいま人生について悩んでいるのです。
そんな中で、ずっと小屋で暮らしているという人の生活や思考を覗き込むのも悪くないかもしれないと思って本書を購入してみました。
読んで人生観がぐっと変わるというほどではないですが、小屋に住みながらこんなことばかりを考えている人生も「アリ」だと思うと、少し肩の荷が下りる、そんな書籍となっております。
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