絶望があり、それを糧にした努力があり、その努力を嘲笑うような絶望にまた襲われる。
その描写方法が全くわざとらしくないというか、こういうことって、人生で何か「努力」をしているとよく起こるよね、と感じさせる、そんな生々しさのある描写です。
そうして筆を折った藤野ですが、卒業式の日、先生の代わりに卒業証書を京本に渡しに行って欲しいと先生に頼まれます。
ついに邂逅を果たす藤野と京本。
そこで藤野は、京本が藤野のファンだということを知るのです。
京本に四コマ漫画での話の上手さを褒められた藤野。
しかも、ここで京本の口から、藤野は小学四年生以来、一度も休載することなく学年新聞に四コマ漫画を載せ続け、しかも絵と話の質が向上し続けているということが語られます。
自然な形でさらりと、藤野が持つ連載作家としての才覚が示されるわけです。
そして、どうして六年生の途中で描くのやめちゃったんですか、という京本の問いかけに対して、漫画の賞に応募するために学年新聞への連載はやめた、と大ハッタリをかます藤野の顔に現れている恍惚感。
そして、京本の家から自宅に帰るまでのあいだ、自分があの京本に褒められたということの嬉しさを隠せず、有頂天になって踊り出す藤野の伸びやかさ。
小学生の頃の、ひねくれていて繊細で、そのくせ誰かに認められたくてたまらなくて、尊敬する人に褒められたりするとどうしようもなく高揚してしまうような、そんな心情が「絵」だけを使って大胆に描かれている。
こんなに気持ちの良い漫画のシーンは久々に見ました。
ここまでの展開ですら「意外性」のある素晴らしい感動物語となっているのに、ここまでは本作を三分割した場合の第一幕に過ぎません。
それほど本作は充実した作品になっております。
この事件のあと、藤野と京本はコンビを組み、漫画賞への応募を経て準入選の賞を獲得。
その後も読切を掲載するなど躍進を続け、その間に藤野と京本は独自の友情を育んでいきます。
しかし、高校卒業後の連載が出版社から約束されたそのとき、二人は道を違えることになるのです。
背景画の道をより究めたい京本は美大に進学し、藤野は単独で連載漫画家になります。
そして、藤野が連載を開始してしばらく経ったあと、ここからが特にSNSで話題になった展開ですが、京本を悲劇が襲います。
自分があのとき漫画を描いていて、その「漫画」を通じて京本を部屋から引っ張り出したから、だから京本は殺されてしまった。
悔恨に浸る藤野の脳裏には、あったかもしれないもう一つの世界が描き出されます。
藤野は漫画ではなく、姉に勧められた空手を続けていて、その技術を使って犯人を撃退し京本を助ける。
助けられた京本の口から発せられる問い。
学年新聞にマンガを連載していた藤野先生ですよね、なんで漫画を描くのをやめちゃったんですか。
それに対して、最近また描き始めたよ、と藤野はハッタリをかますのです。
この世界でもやはり、京本に褒められ、認められ、また漫画を描き始めてしまう。
京本に認められた、卒業式のあの日から、自分は京本を面白がらせるために漫画を描いていた。
京本の笑顔が自分を漫画の道へと駆り立てる。
その運命が不可避であって、自分の生きる道であることに気づいた藤野は、今日も淡々と机に向かう。
波乱万丈があってここまでやって来たはずなのに、振り返ってみると(ルックバック)、その全てが必然に思われて、それ以外の可能性を考えようとしたって、どうしてもここに戻ってくる。
創作への情熱、他者から認められるということ、認めてくれる他者を楽しませようとすること。
それが「生きる」ことなのだということ。
プロになって活躍する創作者たちの、ある種の典型的な青春時代の「想い」を見せられたような、良い意味で打ちひしがれるような余韻の残る終幕になっております。
なお、本作は殺人犯の動機が批判を受けて原作から改変され、また、単行本化に際してもう一度改変が行われたことでも話題になりました。
当初の動機は「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」、web上での改変後は「誰でもよかった」、単行本では「ネットに公開していた絵をパクられた」と変遷しています。
「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」から殺人を犯す、という展開が統合失調症への偏見を招くという批判があって改変したそうなのですが、こういった批判によって創作物が原初の形から変えられてしまう風潮は、時代の流れではあると思いながらも、個人的にはなかなか賛同しきれないところです。
創作物はもちろん、読者の心に様々な影響を与えますが、何が良い影響で何が悪い影響だったかというのは、それこそ千年後、二千年後にならなければ分からない。
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