そんなことならば、この社会で生きていたって、この社会で生き残ったって、自分が生きたことにはならないし、そこにどんな喜びや生きがいを見つけて日々を過ごせばいいのだろう。
そんな状況に陥るならば、そんなの、死んだって同じじゃないか。
良一が胸中に抱えるそんな想いは、特に序盤から中盤にかけて色濃く行間から滲み出てきます。
また、良一の弟である孝輔が中学受験に成功し、名門私立中学校に通っているという設定にも妙味があります。
良一とは異なり、孝輔は勉強だけでなくスポーツも得意で、ピアノもそれなりの実力を持っています。
そんな孝輔ですら、勉強のためにスポーツやピアノをある程度控えることで名門私立中学校に合格し、いまなお大量の課題をこなし続ける毎日を送っている。
学校においても、家庭においても、自分が何者かを他者に証明する術を持たない良一の日常は息苦しさに満ちていて、良一は「死」という選択肢に対してぼんやりとした憧れを抱くまでになってしまっているのです。
むりをして生きていても
どうせみんな
死んでしまうんだ
ばかやろう
飛び降り自殺した小学5年生がアパートの踊り場に遺した言葉。
この言葉を見るために、良一はしばしばこのアパートに足を運びます。
そういった良一の日常へ闖入し、物語を進める牽引役となるのが羽根木徹也という人物。
野球部にて四番かつエースを張るイケメンの同級生は、音楽室にあるビデオカメラの使い方を良一が知っているという情報をもとに良一へと接近します。
自分が出場する試合の映像を撮って欲しい、取り巻きの女子は映さずに、自分だけに焦点を当てて撮って欲しい。
「頼む。ただの試合じゃないんだ。こいつには、人の命がかかっている」
そう頼み込む徹也の言葉、承諾した良一の胸には「命」という言葉が引っ掛かります。
徹也の活躍を撮影した翌日、病院に連れてこられた良一が面会した相手、それは、病室のベッドに横たわる上原直美であり、彼女は不治の病を抱えていて余命幾ばくもない。
映像を見せたり、他愛もない会話をしながら、必死に直美を励まそうとする徹也。
少し皮肉っぽい、しかし繊細な感性を持っていることが伝わってくる口調で、良一や羽根木のことを「羨ましい」と語る直美。
徹也の熱情と直美の羨望に触れる中で、少しずつ内面から変わっていく良一。
本作の最も魅力的な点が、この良一の内面における変化の描写です。
因果を明確にしてスピーディーに分かりやすく変化をさせるのではなく、物語の中盤から終盤を全面的に使って、ゆっくりと着実に、良一が「生きる」ことに向き合っていく様子が描かれます。
物語をつくるにあたって、感情の変化を描く際、象徴的で派手な出来事を起こして急激に変化させるのは楽なことです。
そして、本作が表現しているのはその真逆、様々な出来事や他者との交流を通じて、良一の胸に秘めるものがゆっくりと温まっていくような、それでいて決して中だるみせず、読者が良一の精神的成長と歩調を合わせて一緒に進んでいけるような、絶妙なテンポ感があるのです。
小説に綴られる言葉の一つ一つを使って、良一の心情変化を一歩一歩進めていく。
そんな筆致が醸し出す切なくて尊い青春の情感にのめり込んでいくこと間違いないでしょう。
決して派手な出来事や奇抜な展開があるわけでもなく、淡々と、いかにも順番通りに進んでいく物語。
それなのに、この文体、この心理描写、このテンポでしか為しえないと思わせるような独自の感慨に溢れた作品です。
自分が演奏している姿を撮影し、直美に見せ、その感想を聴くことで良一は自分自身や人生を見つめなおす機会を得ます。
親しい関係となった徹也が抱いているコンプレックスを聞いて、誰しもに内面の葛藤があることを良一は学びます、
少しずつ想いを寄せ合っていく良一と直美ですが、直美の死期は迫ります。
穏やかな緊迫感とでも呼びたいような、悲しいけれど前向きな空気に包まれたあと、良一と徹也のあいだには「いちご同盟」という男同士の約束が交わされる。
自殺を取り扱った作品が中学校の教科書に載っていたことがある、と聞いたときには驚きましたが、読んでいてなるほどと思いました。
全国の中学生に是非、読んで欲しい作品であり、きっとクラスの数人は自分の人生についてこの作品をきっかけに考えるようになる作品であると感じます。
最後に、私が本作で最も感動した場面を紹介いたします。
それは、良一が母親の前でベートーヴェンの「田園」を演奏する場面。
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