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小説 「西の魔女が死んだ」 梨木香歩 星1つ

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西の魔女が死んだ
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1. 西の魔女が死んだ

児童文学作家である梨木香歩さんの作品。1994年に単行本、2001年に文庫化された小説で、特に文庫化の頃に爆発的に流行った記憶があります。当時のベストセラーで100万部以上売れていたうえ、いまでも「新潮文庫の100冊」でレギュラー的な扱いなので部数を伸ばしていることでしょう。

ざっくり言うと「学校に行きづらくなった少女まいがお祖母ちゃんと共に田舎の家で過ごすことでその心が再生していく過程を温かく描く」という小説なのでなかなか批難しづらい小説(少しでもケチをつけると心無い人だと思われそう)ですが、そんな心理的抵抗を乗り越えつつ星1つを本ブログではつけます。中身のない小説です。

2. あらすじ

学校にうまく馴染めず、不登校になったしまった中学一年生のまい。母親の勧めにより、まいは田舎のおばあちゃんと一緒に過ごすことになる。

そんなまいを温かく迎え入れたおばあちゃん。ジャムをつくったり鶏の世話をしたりして過ごす生活のことをおばあちゃんは「魔女修行」と呼んだ。それは 「早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする」 なかで魔女としての心構えを学ぶということ。おばあちゃんとの生活を通じ、他者に寛容かつ公正に生きること、自分の意志で物事を決め、決めたことを貫き通すことなどをまいは理屈ではなく感覚で学んでいく。

しかし、おばあちゃんとの生活も穏やかなことばかりではない。ある日、おばあちゃんの家の鶏小屋が荒らされていることをまいは発見する。まいは犯人に心当たりがあるのだが......。

3. 感想

圧倒的に「無」な作品だと思います。

学校生活でつまずいた中学生が優しさと厳しさの両面を持つおばあちゃんと過ごすことで人間性を獲得し(取り戻し)、少し違う自分になって学校に復帰するという、ただそれだけの小説。

おばあちゃんの発言はすごくそれっぽいことを言っているようで中身がなく、感動の押し売りという表現がぴったりです。「本当に大事なことは田舎/おばあちゃんが知っている。荒廃した都会に住んでいては分からない」系の、当時でさえしゃぶりつくされた類型の話がだらだらと垂れ流されるだけの作品になっています。

例えば、「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」という台詞なんかは、なんとなく良いことを言っているようで内容は当時でさえ手垢まみれの言説の焼き増しに過ぎません。こんな「無理して学校に通うことはない」という安易な慰めはいまでも流行していますよね。簡単にそんな決断がさせないようにしている社会構造や親の心理に子供が敏感だからこそ苦しんでいるのであり、これは責任を取らなくてもい第三者の妄言に過ぎません。サボテンが砂漠で苦しみ、シロクマが北極に居づらさを感じているということが事物の本質なのです。サボテンは砂漠以外に、シロクマは北極以外に生れ落ちることはできず、両親や同類の仲間たちから見ても砂漠や北極で生きることが「普通」であり、例え砂漠や北極の雰囲気や空気感が苦手でもそういった狭い場所でのマウントの取り合いに消耗せざるを得ないのです。

ただ、凄く売れた小説なんですよね。しかも、いまでも売れ続けている。

おそらくその理由は2つあって、1つは当時として非常に時機を捉えた作品であったこと、もう1つは当時にあって本書が扱った社会構造や社会問題というものがいまむしろ複雑化しながら拡大しつつあることなのだと思います。

主人公のまいは「(過度に)他人に合わせる」ということに違和感があり、しかし、力強くそれに抵抗する気概を持っているわけではなくそういった雰囲気には疲れ果ててしまうタイプ。特定のグループをつくって異常なほど密着し、ときに当たり前のように孤立者に対するいじめを行う文化に嫌気がさして他人と同調することを止めた結果、どうしても学校に居づらくなって不登校になってしまったということが全編を通して明らかになります。

学校に行かない/行きづらいという子供の中でこういったタイプが多数派となり、社会問題化として認知されていったのが1990年代から2000年代であり、いわゆる「不良」タイプでもなく学業落ちこぼれタイプでもない不登校というのは世間に衝撃を与えていたのです。スクールカースト的なものが跋扈し、「ダサい」人間への陰湿ないじめが始める。ただ分かりやすい流行に乗っていればよいのではなく、規則を破ったりすることがカッコいいというわけでもない、コミュニケーション能力や洗練された言動を筆頭とする現代的な価値観のもとで形成される友人関係とマウントの取り合いから脱落する子供が(当然ですが)出始めました。

こうした子供が環境を変え(たいていの場合は田舎に行きますが、最近は海外なども流行ですよね)、異なる価値観に触れることで学校という狭い空間に捉われていた心を解放する、という筋書きはいまやベタですが当時としては斬新で、こうした物語の先駆けの一つであるといえるでしょう。

そして、本作では田舎に行くうえ、迎え入れる祖母がイギリス生まれイギリス育ちの人物とあって田舎×海外のハイブリッド型にもなっています。

そこで体験するのが、「自分で身の回りのことを(炊事・洗濯・料理・掃除など)自分で行い、旧い田舎生活ならではの自然体験(庭で植物を育て獲ったベリーでジャムづくり・鶏を飼い朝に卵を取る)をする」ということ。これも当時の子供たちに対する言説、つまり「(都市部のサラリーマン+専業主婦家庭が増えたことで)子供たちは家事も家業も手伝わなくなり、そのことで『大事なもの/こと』を失っている」をそのまま反映した形で、要は大人視点の子供観をあけすけに反映しているわけです。

また、両親の性格設定も時機を捉えていました。母親がまいを「扱いづらい子」と称し、まいはその言葉に傷つくのですが、(母親はハーフで自分も学校にいづらかったこともあり)学校に行かないまいを叱り飛ばしはせず、本音では普通に学校に通って欲しいと願いつつも丁重に扱って穏やかな復帰を促します。「常識」や「普通」に適応できない子供を昔ながらの肝っ玉母ちゃんのように叱り飛ばすという価値観を持てず、スマートに解決していきたい(スマートに解決できなければカッコ良くないという自縄自縛的観念なのかもしれませんが)が、人間の感情の複雑さという面もあり、これを行えば解決という合理的手段もなく葛藤するという気持ちは当時の(都市部の)母親の置かれた環境や心理を反映しておりました。

そして、この母親が大学を出たキャリアウーマンでずっと働き続けたいと思っているという側面もいい味を出しているのです。一部の女性がいわゆる「総合職」にも進出してきた時代であったのですが、その風潮は女性全体ですら歓迎一辺倒というわけではなく、実際、母親の母親であるまいのおばあちゃんは娘がバリバリ働くことには反対しています。この頃(いまでもかもしれませんが)、バリバリ働きたい女性にとって母親というのは温かみのある育ての親である反面、守旧的な価値観からしか娘の幸せを考えられないという側面も持っており、錯綜する心理を抱かせる存在でありました。児童文学に見せかけて丁寧に「大人ウケ」を成し遂げているのが本書であり、だからこそ課題図書であったり「新潮文庫の100冊」にピックアップされるわけです。男女限定せず、中学生の心に本当に響くような下品で世俗的な作品を「大人」が薦めることはありません。良きにつけ悪しきにつけ、父親の家庭における存在感が薄く母親が子育ての主体となる中で母親受けする価値観を持ったコンテンツが幅を効かせた時代でもありました(お昼の主婦向けのワイドショーやドラマ等における「主婦が世界で一番頑張ってる」感はなかなかのものでした)。

他にも、娘とスムーズに会話できないが亭主関白的な態度をとるわけにもいかない父親感や、そんな父親の単身赴任に良い意味でも悪い意味でも振り回されるまいと母親(特に母親は「働き続ける」という側面において)など、まさに日本社会変化の予兆、それも、なかなか解決されない類の変化を捉えていたといえるでしょう。しかも、保守的な母親の価値観を両側面から描いたり、いじめ問題に対して「でも、私の問題もやっぱりあると思う」 とまいに言わせてそれを真っ向から否定はしない(複雑な社会で生き残っていくには器用さや強さも必要だということは否定しない。理不尽なことをしてくる相手とも「コミュニケーション」をしなければならない)など、なにか現実社会で生きるわたしたちが感じ入らざるを得ない部分でバランスをとるあたりも巧妙です。

とはいえ、冒頭にも申し上げた通り、「上手くやったなぁ」と思うのはこうした「要素」の並べたてだけ。そこに「物語」はなく、感動もありません。薄っぺらい、それっぽい言葉の羅列は空しいばかりです。空虚な自己啓発本であったり、視点の偏ったエッセイに似た読後感。かつて話題だった本としてこれを掴まされるのは不幸であると思います。

4. 結論

時代の先端をうまく捉えて商業的に成功した本ですが、小説としては駄作です。たいした起伏もなく、はっとさせられような展開・価値観の逆転もありません。文章表現も巧みとはいいがたく、星1つが妥当でしょう。

梨木香歩☆(小説)
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明日も物語に魅せられて

コメント

  1. 50代1児の父 より:

    この記事のおかげでやっと胸のつかえが落ちた気分です。
    最後まで読まれた上での分析に、私などは遠く及びませんので、敬服こそすれ「共感できる記事」などとおこがましいことは言えないのです。がともかく、図書館で借りてきて1章読みきれずギブアップし、ウェブで感想を探してみたらみなさん褒める褒める、(内容に共感するしないはもちろん人それぞれと思いながらも)あまりの評価されっぷりに(北方謙三以来久々に)日本文学界不審に陥りそうなところでしたので、今救われた心持ちでついコメントしておる次第です。
    ギブアップの理由は地の文の視点がふにゃふにゃ浮遊してなおかつ神視点ですらない、私はてっきりラノベだと思って我慢して読み進めようとしたのですが「数匹の犬が」とかいわれてもうダメ、、、本を閉じました。

    • 河瀬みどり神月紫苑 より:

      当ブログにお越し頂きありがとうございます。褒め記事が多い理由は、「おばあちゃん絡みでの中学生の再生物語」という体裁上、なかなか貶すような記事を書くのが雰囲気的に憚られるからではないでしょうか。また、本記事でも記載いたしました通り、文章や物語がイマイチでも設定の妙によって受ける人には受ける作品になっておりますので、そういった人が褒め、なんとなく買ってしまう人が現れ、多くの人は投げ出すけれど信者が現れてまた褒め記事が増えるというループがあるのかもしれません。軽い重いはともかくとして、しっかりした文章と物語の力で魅せる作品が増えて欲しいものですね。

      • 50代1児の父 より:

        すぐにお返事がいただけてなんとも光栄です。
        褒め記事の仕組みはなるほどなるほど。

        まったく仰る通り、文章と物語。それが小説の全てだったはずなのですけどね(笑)
        でも、お若くしてそう仰る読み手の方がまだおられる、と知って元気が出ました。
        まだこの世界も捨てたものではないのですね。