すると、主人公の思考はさらに細部へと沈殿していきます。
この世が仮面であふれかえるようになれば、もはや国家による秩序管理は行き届かず、この世は完全犯罪者だらけの無法地帯になるのではないかと。
仮面によっていつだって異なる人間に慣れるのならば、仮面を着脱することによって罪を犯した自己を置き去りにし続けることができるわけです。
珍妙な論理に見えますが、都市化し、人間関係が希薄化した現代社会(あるいは、本書が出版されて以来続く資本主義の内面化による人間の質的変容の驀進下)においては、待ち行く人や隣人についてさえ、その人が昨日、どういう顔をしていたか分からないわけです。
お互いに連続性を認知できない人間同士ばかりが同じ空間を行き交う社会ではある意味、常に仮面によるアリバイが成立しています。
目の前を歩く人物が犯罪者なのか否か、私たちが簡単に峻別する術はありません。
そして、仮面が本当の自分自身(の素顔)とは異なる存在なのだと自覚した主人公は、逆説的に、無自覚的に拳銃を購入してしまうのです。
他者に対して「自己」であること、「自己」に責任を持つことから解き放たれた瞬間、自分自身がどこまでも野蛮で狂暴になれることに主人公は戦慄します。
巷を騒がせている「無敵の人」理論に近いのかもしれません。
養うべき家族も、守るべきキャリアも、趣味を謳歌するだけの金銭的余裕もない状態の人間。
そんな人間もはや失うものがなく、どんな凶悪犯になることも恐れないという理論なのですが、やはりこれも、過去から続いている自分の顔、未来に続く自分の顔に責任を持つ必要がない状態から生じる現象でしょう。
「無敵の人」にとって、自分の顔が将来の自分や親密な誰かにとって真人間の顔である必要がなくなってしまっているわけです。
しかしそう思うと、普段、私たちが被っている「素顔」というやつはなかなか厄介なもので、そこにはほとんど自己の内面が現れておらず、もっぱら他者に見せるためだけの外面が表れているわけです。
顔は単に外表に存在するから外面というだけでなく、内面をその表情で覆い隠すものとして機能しているという意味でも外面になっています。
明日もこの顔で「自分」を演じるからこそ、今日、他者からはこの顔を真人間の顔として覚えてもらわなければならないのです。
さて、主人公は仮面を被ることで再び妻との行為に成功するわけですが、ここでまさに、「仮面が本当の自分自身(の素顔)とは異なる存在なのだという自覚」が主人公を苦しめます。
仮面によって犯された妻は、主人公にとって、仮面によって寝取られた妻も同然だったからです。
仮面をつくることによって妻への姦淫に成功したくせに、仮面にあっさりと心を許した妻を許せない主人公。
自分-仮面-妻の奇妙な三角関係に終止符をうつべく、主人公は自分が仮面を作り始めた経緯をノートに書き連ね、それを妻に見せます。
そのノートの内容こそこの小説である、という体裁を本作品はとっています。
最終盤、ノートを読み終えた妻から、主人公は言葉による手痛い一撃を喰らい、それが主人公をある凄惨な行為へと駆り立てます。
妻の言葉、そして主人公の行動はどちらも衝撃的なものですが、顔という外面と自分自身という内面が常時分離している、あるいは、分離させざるを得ない生活を送っている現代人こそはっとさせられる展開となっています。
結論
長々と理屈を捏ねましたが、端的に言えば、このようなダラダラとした理屈の垂れ流しが好きな人は読むべきでしょうし、そうでないならば避けるべき小説です。
「顔」や「仮面」について論じる主人公の独白が大半を占める作品であり、エンターテイメント性は皆無に近くなっております。
難解な純文学好きのあなたに、とだけ言っておきましょう。
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