感動を演出するためには、偶然の交通事故よりも、お互いの行動によってもたらされた感情が二人の絆を深くしたような過程を踏むべきだったはずです。
もっと言えば、「ユウタの父親が」事故死しているという設定は完全に死んでいます。
普通にそれが赤の他人でも成り立ってしまっている、無意味な設定です。
また、題名にもなっている「虹色ほたる」の活かし方も雑です。
かつて水不足の際に偶然見つけた湧き水のそばで老神主が見たという虹色に光る蛍。
過去に村を救った象徴のように語られたのですから、本作の時間軸においても、ダム建設による村の破壊や村から離散していく子供たちの友情の綻びに対して「虹色ほたる」が何らかの役割を果たすのかと思いきや、現代に帰ってから脈絡もなく登場し、ユウタとさえ子の再開時に意味のないイルミネーション的な役割を果たすだけです。
奇跡をアニメーション的に表現するのですから、べつに蛍を出さなくとも虹色の輝きが二人を包んだって良いでしょう。
まさか「虹色ほたる」が何の伏線にもなっておらず、何の意味も持たされないとは思いませんでした。
そして、最も難じられるべきは、現代に帰って以降の展開です。
上述したように、現代に帰ってからユウタとさえ子は再会するのですが、タイムスリップが終わればさえ子が死んでしまうということを途中で示したにも関わらず、なんの言い訳もないままさえ子は視力を失っただけの状態で再登場します。
けばけばしいだけの光が二人を包み、最後に白地に黒抜きの字で映画のキャッチコピーがデカデカと書かれて終了。
こんな酷いラストシーンもなかなかないでしょう。
映画のキャッチコピーは映画全体で表現するものであって、最後に画面全体に文字で出してしまえばしらけるのもいいところです。
あり得ないとは思いながらも、制作過程での消し忘れを疑ってしまいます。
このように、良い描写力を持ちながらも脚本が決定的に悪いせいで全体を劣化させているのがこの映画の特徴であり、物語の根幹に関わる部分での失点が大きいのはもちろんなのですが、より踏み込んだ、細かい部分でももう少しどうにかできないかと思われる箇所があります。
例えば、ダムに沈む前の「最後の夏」という設定。
上述したように、「夏」という要素は描写において惹きつけられるものになっているのですが、「最後の」というところは活かされていません。
もちろん、「最後」だから街の花火大会にケンゾーを誘う女の子が出てきたり、「最後」だから村の祭りで子供たちの描いた絵を貼った灯篭を使うなど、無理矢理ねじ込んでいなくもないのですが、それらの出来事も普通に考えれば「最後」でなくても全然あり得ることばかりです。
なかなか誘えなかったデートに誘うきっかけは古今東西の作品にいくらでもパターンがありますし、子供たちが灯篭に絵を描くのだって、何周年記念とか、特別なイベントがあるとかでも代替できます。
「ダムに沈んでしまう村で最後の夏を過ごす子供たち」という非常にキャッチ―な舞台設定がありながら、その固有要素を全く活かせていません。
映画として重要な要素である「絵(画)」や「動き」については評価できるので評価1点(平均以下の作品)にはしませんが、物語面では問題があり過ぎると感じました。
かなり1点寄りの2点(平均的な作品)です。
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