第7位 「こころ」夏目漱石
【今昔に通じる世代間での価値観相克という大問題】
・あらすじ
東京帝国大学の学生である「私」は夏休みに訪れていた鎌倉の海岸で「先生」と出会う。
ひょんなことから「先生」との交流を始めた「私」だったが、「先生」にはどこか謎めいたところがあり「私」には「先生」の奥底が理解できないように感じられていた。
「先生」とその妻との関係、そして「先生」が毎月行う墓参にヒントがありそうだが、「私」にはそれが掴めない。
そんなある日、「私」は重い腎臓病を患う父のいる実家へと帰省することになった。
当初は父も元気な様子だったが、明治天皇が崩御し、乃木大将が割腹自殺で殉死した頃から元気を失くすようになってきた。
事態の悪化を受け、「私」は東京へ帰る日取りを延期していたが、いよいよ父の容体が危なくなったその日、「先生」から手紙が届く。
手紙の末尾に記されている結末を先に見てしまった「私」はいてもたってもいられず実家を飛び出し、東京行きの汽車へと乗るのだった。
そして、汽車の中で「私」は「先生」の手紙を読み進めていく。
明治の人間として「先生」が自身の犯した罪にどう決着をつけるかを示した手紙。
そこに綴られた若き日の恋物語とは......。
・短評
表面上は恋愛小説を装いながらも、その実は世代間における価値観の違いをお互いに全く理解できないという普遍的なテーマを描いた純文学作品です。
「時代の趨勢と人々の『こころ』」 がテーマなのだと言い換えてもよいでしょう。
主人公である「私」が出会うのは、親友であり恋敵であった人物を裏切ってしまった過去を持つ「先生」という人物。
「先生」は最終的にその過去を気を病んで自殺してしまうのですが、なぜその程度のことで自殺するのか、主人公である「私」には理解できない、という枠組みが「こころ」を語るうえでは重要になります。
恋敵への裏切りを一生の汚点として引きずってしまい、「先生」は贖罪として日の当たらない人生を歩んでいます。
現代人の精神性としてはもちろんのこと、本書が出版されたときでさえ、主人公の「私」をはじめとした若者たちには一度の恋敵への裏切り程度で自分の人生全体を台無しにしてしまうような、その考え方が理解できないのです。
そして、明治天皇の崩御とときを同じくして、明治維新以来の忠臣であり日露戦争の英雄でもある乃木大将が殉死したというニュースをきっかけに「先生」は自殺してしまいます。
乃木大将も西南戦争で敵に旗を奪られたという武将としての汚点を抱えており、それを一生引きずったまま、いつ申し訳のために死のうかと考え続けていたという点で先生と同じ精神を抱えています。
つまりこれが、本書が述べるところの明治の精神というわけです。
そんな「明治の精神」という価値観を、主人公である「私」が決して理解しえないことを、「先生」は理解している。
その時代時代に生きる人々の心を縛る独特な道徳心。
それは昭和生まれの人々にも、平成生まれの人々にもありますし、きっと令和生まれの人々も抱くのでしょう。それは言葉にするには難しく、簡単に抗えるようなものでもなく、その道徳心に逆らおうとすると何か不思議な感覚が自分を押し戻そうとするような気持ちになるはずです。
そして、その感覚は同じ年代生まれの人々とは簡単に共有できるのに、異なる時代生まれの人々には驚くほど通じず、ただただ苦笑いするだけという場面に遭遇するような代物であるはずです。
もちろん、私にも読者の皆様にも明治の人々を内側から律していた「明治の精神」は分からないものです。
しかし上述のように、昭和世代を内側から律する「昭和の精神」を平成世代が理解してくれないと悩んだりすることや、そんな時代の移ろいに感慨深くなったりするという現象は多くの人が経験したことでしょうし、「平成の精神」を令和世代が理解してくれないなんてこともこれから多発するのでしょう。
世の中の動きが速くなり、そんな現象がこれから多発するということを予見したかのように、本作は100年前に書かれたのです。
当時急浮上した感覚であり、誰もが言葉にしづらかったことであり、永遠普遍のテーマとして現代にも引き継がれる「時代の趨勢と人々の『こころ』」。
本作はそれを鮮やかに描いた小説であり、だからこそ「明治世代」にも刺さり「大正世代」にも刺さり、いまでも読み継がれているのでしょう。
なんとなくですが、恋愛感覚の変化や「忠君報国」精神の変化というのが明治から大正の転換期に起こったというのは、同じく恋愛感覚の変化や「(会社への)滅私奉公」精神の変化が起こっている平成から令和への転換期としてのいまに似ている気がして感慨深いですね。
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