もちろん、これまで存在していた差別的な措置や歴史のために女性の意欲が構造的に妨げられているとか、そういった反論もジェンダー平等を推進する立場からはあるはずです。
1990年頃まで、こういった庶民同士の対立、生々しいトレードオフは、人口増加と経済成長、保守的な家族観によって覆い隠されてきました。
一定程度の若年人口増加があったので、年金をめぐる世代間対立は緩和されていました。
社会政策による分配の不公平性もありましたが、経済成長によってほとんど全員の所得が増え続けていたため、分配に対する不公平感を覚えづらかったという環境がありました。
大多数が保守的な性別観や家族観を信じていた社会において、ジェンダー問題が議論されることはあまりなく、そういった側面から社会を動かす発想そのものが生まれませんでした。
しかしながら、1990年ごろを起点に状況は著しく変わっていきます。
1990年代半ばには15~65歳の生産年齢人口が減少を開始し、税金や社会保険料の支払い手が減少し始めました。
1990年のバブル崩壊をきっかけに経済成長は低迷、1991年度から2020年度までの平均経済成長率は0.7%であり、74年から90年度の4.2%を大幅に下回っています。
1999年には男女共同参画社会基本法が成立し、以降も国際的なジェンダー平等言論の波は留まるところを知りません。
2021年現在、人口増加や経済成長が低迷して社会的余剰が増加せず、しかも男女が進学や就職、昇進において同じ椅子を奪い合う社会になったことで、世の中はパイを奪い合う熾烈なゼロサムゲームになっています。
だからこそ、何か政策や社会状況について「報道」を行うとき、そこに社会的意義を付与するために賞賛や批判を伴う価値づけや意味付けを行おうとするとき、テレビは庶民の中でもどういった立場の側に味方するかを選択しなければならなくなっているのです。
そういった状況に無自覚なテレビ報道の姿勢、それがコロナ報道において露骨に現れたといえるでしょう。
補論 本稿におけるジェンダー平等の取り扱いについて
テレビが「どちらかに肩入れしなければならない」問題を語るにおいて、ジェンダー平等をその項目に入れたことには反発心を覚える人々も少なくないかもしれません。
本稿をもってジェンダー平等の推進が良いとか悪いとかを言いたいわけではないのですが、少なくとも、性別役割が分かれていた時代にはどちらかの性別に肩入れするかを選択する必要はあまりなかったというのは事実でしょう。
しかし、女性の社会参画が進行する中で、いまや名門大学・高校への入学権利や就職の椅子を全員参加で奪い合っているのが現実の状況です。
その中でどちらかの性別を優遇する、あるいはマイノリティを優遇するという施策は必然的に利害対立が発生することであり、メディアはその報道姿勢によってどちらにどの程度与するかを必然的に選ばなければなりません。
(もちろん、過去には専業主婦視点なのかサラリーマン夫視点で語るのかという点で報道姿勢や番組構成への色付けはあったでしょう。しかし、限られたポストを奪い合うという構図ほど激しくはなかったはずです)
そのとき、不遇の時代を過ごしてきた(いまも過ごしている)という理由で女性やマイノリティ優遇を肯定するのか、弾かれる実力のある男性が可哀想で不公平だという視点から女性やマイノリティ優遇を否定するのかは、程度問題こそあれ「報道」する以上多少の色はついてしまいます。
こういった、視聴者全体を「可哀想」扱いできない問題について、テレビは迷走しています。
もし、最近のテレビには一貫性がないとか、歯切れが悪いと感じるならば、この「可哀想」を決められない問題という思考枠組みを持つとよいではないのか、ということを本稿は言いたいのであり、ジェンダー平等という命題ですらその問題からは逃れられないと言いたいのです。
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