第2位 「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ
【順風満帆な人生に感じる理由は思考が浅いからかもしれない】
・あらすじ
バグダッドから陸路でロンドンで帰る途中、ジョーン・スカダモアはテル・アブ・ハミドという駅の宿泊所でブランチ・ハガードという女性と再会する。
ブランチは聖アン女学院時代の旧友であり、かつてはその美貌と教養で生徒たちから憧れの対象として見られていたが、身分の低い男との衝動的な恋愛・結婚遍歴を経ていまや可哀想なくらい落ちぶれ、見た目もみすぼらしくなっている。
そんなブランチに対して自分はどうだろうか。
弁護士の夫と結婚し、三人の子供を儲けて育て上げた。
弁護士事務所のボスとして君臨する夫は世間からも成功者だと見なされているし、三人の子供もまた立派な地位に就いているか、立派な地位に就いている男を夫としている。
自分はなんと上手くやってきたのだろう。
そして、自分だけでなく、周囲の人間に対しても適切な働きかけを行って成功へと導いてきた自負がある。
落ちぶれた旧友と自分の人生を比較し、気分上々のジョーンだったが、状況は一転、彼女は不運に襲われてしまう。
翌朝目覚めると天候が悪化しており、汽車も自動車も駅を発着しないという有様。
砂漠の駅の宿泊所に釘付けとなってしまったジョーンは、ふと自分の人生全体を振り返るのだが......。
・短評
自分は素敵な奥様として人生を輝かしく生き、周囲の人間を適切に導いてきた。
主人公のジョーンは自分のことをそう高く評価しているのですが、自分の人生における言動や、それに対する周囲の反応を冷静かつ緻密に振り返っていくにつけ、そんな自己評価に少しずつ疑念を抱いていく、という物語になっております。
端的に言ってしまえば、このジョーンという人物は偏った「良識」の中で盲目となり、周囲に自分が持つ「常識」や「普通」を押し付け続ける人生を送ってきた人物なのです。
夫であるロドニーが弁護士職を投げうって「農場を経営したい」と言ったときも、それを嘲笑うかのように一蹴して、弁護士を続けて事務所を開けるようにするべきだと命令に近い「アドバイス」を頭ごなしに行ってしまう。
長女エイヴラルが妻を持つ年上の男性と恋に落ちてしまったときも、その状況をヒステリックな態度で糾弾するだけで、その衝動的な恋愛の中で長女が何を想っているのか、何を表現したいのかという部分には全く気も留めない。
ただその表面上の行動が「非常識」である、というだけでショーンはエイヴラルをこき下ろします。
長男であるトニーが父親の職業である弁護士を継がず、農業経営を行いたい(父親に似ていますね)と言い出したときにも同じような反応を見せます。
逆に、表面上の行動さえジョーンの「常識」に適合していれば、その行動が反ジョーン的動機から生まれたなどとは露とも考えません。
次女バーバラは、ジョーンの存在する家庭が嫌で嫌でたまらない、という理由で若くしてバグダットの土木事業局で有望な地位に就いている人物と結婚します。
バーバラが結婚した人物、ウィリアム・レイはジョーンのお眼鏡に適う「立派な」青年なのですが、ウィリアムを見つめるバーバラの瞳に愛がないことには全く気付かないのです。
そして、こうした家族に纏わる事件が起こるたびに、ショーンの夫であるロドニーが大人の対応で事態を穏便に解決し、子供たちの尊敬を得ていきます。
しかし、そういった子供たちの心情の移り変わりにもジョーンは全く気付きません。
とはいえ、本作はジョーンの独りよがりな言動を延々と見せ続けるだけの小説ではありません。
砂漠の中の駅に取り残されたジョーンは、その回想を通じて、徐々に、ゆっくりと、うっすらと、「あれ?」と思うようになっていくのです。
この「ジョーンがついに気づくのでは?」「気づいてしまって、いままでの自分に絶望するのでは」という予感の盛り上がりが本作の物語を牽引する魅力となっております。
自分は「常識的な発言」をすることしか能がない薄っぺらな人間であること、その薄っぺらさと、それによって周囲に与えてきた悪影響。
その深淵に気付きかけて、いやいや、そんなはずはないと突き放し、でもやっぱり、という疑念をぬぐえない。
そんなジョーンの心理的な揺れ動きが仔細に描写され、頼むから家族のためにも気づいてやってくれよ、という希望と、これに気づいたら絶望でジョーンの精神がおかしくなってしまうのではないか、という恐怖が同時に盛り上がる、そんな心理的サスペンスの極致を本作では味わうことができます。
最終盤、イギリスへの帰還を果たしたジョーンは家族ひいては自分自身にどう向き合うのか、その結末については読んでのお楽しみということにしますが、最後の最後まで人間描写の巧妙さには脱帽させられます。
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