いくら富貴や容貌に優れていても、そこから生み出される利益を周囲に分配し続けなければ容易に失脚したのである。
また、不潔な社会は武骨で不器用な人々を包摂していた、
コミュニケーションが上手くなくても、清潔さを保てなくても、居場所を確保し、社会の一員として生きていくことができた。
もちろん、かつては暴力を背景にした搾取も頻繁に行われていただろう。
しかし、いまは知識や情報の格差、容貌や清潔さの格差による搾取が頻繁に行われている。
IQの低さや情報リテラシーの低さにつけこんで奇妙な情報商材を売りつけたり、有料のサロンで無価値な講義を聞かせ、ときには無償労働力化させることだって行われている。
生得的な容貌に優れた人々がYouTubeやパパ活を使って際限なく稼ぐ一方、生得的に容貌に優れない人々は際限ない美貌競争に巻き込まれていく。
生得的なリテラシーの低さや容貌の悪さは徹底的に差別し、搾取してよいことになっているのである。
(性風俗ですら、男性の性欲につけこんで美貌を持つ者がお金を毟り取るビジネスだといえるかもしれない。女性の生得的な特徴である生理に対して社会的な配慮が必要なのだとしたら、男性の生得的な性欲の在り方にも配慮が必要なはずだが、実際には多額の金銭を取られることによってしか解決されない)
性的資本と金銭資本の「暴力」が荒れ狂う世界の中で、平凡な中年男性の苦境は透明化され、形ばかりはスーツを着用した若者男性がストロングゼロを片手に街をたむろする姿に対する救済は全く語られない。
こういった社会には、どこかで転換点が来るのだろうか。
民主制の社会であるならば、虐げられている人々が多数派となったとき、何らかの変化が起こるかもしれない。
ただ、社会的地位が高く、経済的に豊かな人々ほど投票に積極的だというのが政治学における研究の結果だという話も耳にする。
あまり希望はないのかもしれない。
それでも、本書のような書籍が何か変化への希望になることを願ってやまない。
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