他方、生まれ育ちに卑しさがあり、清潔社会的な挙動ができなかったりする人々は胸を張って生きることができず、時には積極的に排除され、精神の病気だという理由で「治療」という領域にさえ放り込まれることになる。
また、生まれたばかりの赤ん坊もまたこの「清潔」文化に馴染まない存在であるから、赤ん坊を連れた親たちの肩身はますます狭くなり、赤ん坊が生まれづらい社会が形成されるという。
読者の中にも、このあまりに清潔な社会を「生きづらい」と感じたり、「かわいさ」資本を生得的に保有している人々に対して不公平感を覚えている方々がいるのではないだろうか。
(東京において、お洒落で経済力のあるLGBTQと、凡庸な容貌でやや不器用な中年男性のどちらが社会構造的な差別を受けているだろうか)
第六章
第六章では、空間設計が生み出す現代社会の特徴について論じられる。
昭和の社会、特に田舎において、町や家屋の空間設計は非常に開放的であった。
道路に線は引いてあってもガードレール等で物理的に区切られていることは少なく、道路標識や駅の案内板や注意書きはいまよりもずっと少なくて、そういったルールに対する意識も低かった。
横断歩道のない場所を横断することや、信号無視が横行していたのである。
家屋の設計も、部屋と部屋の区切りが薄く、自室というものはあってないようなものであり、多くの家族はお茶の間を中心に常時顔を合わせながら生活していた。
しかし、現代社会においては、各個人が確固たる自分の部屋を持つようになり、一人暮らしも増えたうえ、そういった個人空間からインターネットを通じて外界とコミュニケーションをとる機会が増加した。
ゆえに、密接でときには諍いもあり、相互の私生活をよく知っている関係性は減少している。
その一方で台頭したのが、消費社会と監視社会、なにより契約社会である。
人々は私生活の在り方や生き方によってではなく、何を消費しているかによって自己表現し、また、コミュニケーションにおいても、他者の繊細な部分に踏み込まないようにすべく、他者の消費の在り方を媒介に、ある種の薄いコミュニケーションが好まれるようになっていく。
また、いたるところに監視カメラが設置され、誰かが迷惑を被ればすぐに発見される社会構造が出来上がっている。
そして、商品やサービスの受け渡しが個人的な関係によるものではなく、専ら市場を通じて受け渡しされるものになり、通念や慣習といった、非市場的要素が日常生活に与える影響がますます排除されるようになっている。
他者に迷惑をかけないことが徹底され、迷惑をかけていることが炙り出される社会になり、誰もがそのリスクを恐れる結果、社会におけるあらゆる挙動が契約化されていく。
これは本書に載っていないことだが、性行為前に同意書を書くべきという動きもこの一環であろうと思う。
もちろん、同意書には様々なメリットもあるのだろうが、高揚感や衝動といった、性行為の特徴だとこれまで考えられてきた要素を真っ向から否定する言説には時代の転換を感じざるを得ない。
(同意書を書くことが義務となれば、人々は雰囲気がもたらす情熱的あるいは蠱惑的な性行為への相互衝動をいったん抑制して、同意書を認めからあらためて性行為へと臨むのである。性行為はまさに純粋な物理的動作として受け入れられ、そこに付随していた感情的要素の多くが削ぎ落されていることは明白だといえる。これの意味するところは、例えば、ハイタッチの前にハイタッチ同意書が必要になるとされたとき、あなたはそもそもハイタッチを行おうと思うだろうか。同意書を認めたうえで為されるハイタッチに、同意書なしのハイタッチと同じ意味や感覚、具体的には興奮や一体感を覚えることができるだろうか。もちろん、性行為は健康上のリスクがハイタッチなどより遥かに大きい行為であり、その点に差異を見出す反論があるかもしれない。もちろんそうだ。だからこそ同意書という話になるのだろう。リスク回避の重要性を根拠に同意書という方法が提案することに対して直接反論するつもりはない。ただ、付言するならば、非常にリスクが高い行為を明示的な同意なしに暗黙の了解や衝動をもって行っていたからこそ、性行為はこれまで特別視され、意味的に特権的な地位を与えられていたのではないだろうか。暗黙の曖昧な同意によらない性行為、完全な同意契約書を伴う性行為はゼロ円の売買春と同等であり、そこにかつてほどの特権的な社会的地位が認められるとは思えない)
話を戻すと、熊代氏はもちろん、こうした契約社会の徹底について警鐘を鳴らしている。
こうした社会で大きな利益を持つのは、巨大な経済資本を持つ既存のブルジョワや、容姿やコミュニケーション能力によって高い個人的市場価値を持つ人々である。
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