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「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」熊代亨 評価:4点|無菌ゆえに息苦しい社会に適応することの困難【社会学】

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健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
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第四章

第四章では、この「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」の帰結としての少子化が論じられる。

本章における熊代氏の主張は、第一章で述べられた人間のハイスペック化が要求される社会様相と強く結びついている。

子供は非常に動物的な存在、赤ん坊として生まれてくる。

社会通念や社会の習慣を全く知らないため、いたるところで突然に泣き叫び、排泄行為まで行ってしまう。

昭和時代のように街が騒然としていて、大人でさえもあまり清潔でなく秩序を守っていない社会であれば、子供という騒然不潔無秩序な生き物も社会に自然と溶け込めていた。

しかし、現代社会は「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」である。

無味無臭な清潔さが求められ、整然とした挙動以外は不審がられる社会において、子供の本能的動きはあまりにも異質であり、それは「テキパキとしていない、コミュニケーション能力の低い人」に通じるものがある。

だからこそ、子供がそのような「問題行動」を起こさないよう、親は必死にならざるを得ない。

たとえば新幹線のなかで赤ちゃんが大声で泣きだした際には、親は申し訳なさそうな顔をしてデッキに移動し、赤ちゃんをあやしはじめる

本書で挙げられている例であるが、こんなもの軽いほうであろう。

親は赤ちゃんや子供が「不法行為」をしないよう常に見張っているし、一人になってしまわないよう常に気を張っている。

その見張り具合、気の張り具合が昭和の比ではないのである。

また、学校の秩序も大きく変わった。

いじめの認定が厳しくなり、ガキ大将や不良が消滅して、いたずら好きの子供という程度の概念すら滅亡の淵にある。

現代の秩序に沿った態度で過ごすよう、親が子供に仕向けなければならないからそうなるのであり、子供もそういった現代的秩序を徐々に内面化していって、現代風なおとなしさを身に着けていくのである。

いじめがなくなったこと、秩序を乱しがちな子供がいなくなったことは、それだけを聞けば良いことに思えるかもしれない。

しかし問題は、そういった親秩序的な子供に仕上げる作業を両親が一手に担っているということである。

かつてよりも「仕上がった」子供を育成しなければならないのに、地域共同体は崩壊し、かつてよりも育児に参加する人数が少なくなってきている。

ベビーシッターや保育所・幼稚園・習い事といった資本主義的社会契約に基づいた方法で代替するやり方もあるが、それは十全に収入がある家庭にのみ許された所作である。

かつては全ての子供がほぼ平等に受けていた地域社会からの恩恵は、いまや金銭資本と文化資本に溢れた親を持つ子供にのみ許されたものになっている。

子供を育てるための心理的金銭的コストは増大し、それでいて共働きが増えて子供につぎ込める時間も減っている。

頑張って躾けなければ現代社会のハイレベルな秩序を冒しかねない子供という存在、「テキパキとしていない、コミュニケーション能力の低い人」として生まれてくる子供という存在。

そんな子供を持つというリスクをとる決断は非常に厳しい。

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」を少子化の要因としても挙げるところに本書における社会観察の妙味があると言えるだろう。

なお、近代社会が理性なき存在としての「子供」を発見し、それを「大人」へと育てなければならないことに気づいたという論考は近代社会論の定番であり、近現代社会論を総覧する「教養としての大学受験国語」にも同じ趣旨の論説文が掲載されている。

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