「潮騒」や「金閣寺」等の作品で知られ、戦後を代表する作家の一人として挙げられることが多い三島由紀夫の著した小説。
三島由紀夫を文壇の寵児へと押し上げた記念碑的作品であり、代表作を一つ選ぶとすれば本作か「金閣寺」になるというくらいの有名作品です。
同性愛を描いた刺激的な作品ということで、私もその革新性に期待して読んでみたのですが、いまとなっては凡庸だなというのが率直な感想。
小難しい書きぶりは良くいえば芸術的で妖艶なのでしょうが、個人的には無駄に装飾的なように思われましたし、自分自身が同性愛者であることを主人公が徐々に理解しながら苦悩する、という筋書きにもそれほど衝撃を受けませんでした。
つまらないわけではないですが、今日において特段に持て囃されるべき作品かと言われれば、それは違うという印象です。
あらすじ
病弱な身体に生まれた「私」は、祖母によって外遊びを禁じられ、祖母の眼鏡に適った女友達とばかり遊ぶ幼少期を過ごすことになる。
そんな「私」はしかし、幼い頃から女性に惹かれることがなく、魅力を感じるのは専ら逞しい男性の肢体ばかりであった。
しかし、大学生になった「私」には園子という恋人ができる。
園子に対し、あくまでプラトニックな恋情を抱く「私」は自分が正常な異性愛者であることへの自信を深めていく。
ところが、「私」の中に宿る同性愛者の心は異性愛への沈殿を決して許しはしない。
「私」が耐えがたい情欲を感じる相手の属性とはやはり......。
感想
少年から青年に至る過程において同性愛へと目覚めていく男性の心理を丹念に筆致し、同性愛は「普通ではない」という自分自身の中にある道徳観念との衝突と、それでもなお、同性に対する情欲がそういった道徳観念を蹴散らして自分のアイデンティティとして立ち現れてくる様子を描いた作品です。
主人公である「私」が同性愛に目覚めていく過程の描き方は確かに刺激的であり、その生々しい描写には思わず惹き込まれます。
幼い頃は汚穢屋(糞尿汲取人)の若者が持つ肉体の挙動に憧れを抱き、13歳のときには裸の青年が描かれた「聖セバスチャン」という絵画を見て初めての射精を行い、中高生の頃には留年した先輩である「近江」の荒々しい肉体と精神の在り方に惹かれていく。
単に同性である男性が好きだという以上に、男性という存在が持つ汗臭さ、血生臭さに対して欲情してしまう点が「私」の倒錯ぶりをより一層際立たせています。
また、そんな「私」に対して救いの手を差し伸べる存在として描かれるのが、友人の妹である園子という人物です。
いかにも潔癖かつ清楚な、古き良きお嬢さんな園子は男性ならば誰もが惚れてしまうような女性。
そんな園子と恋人関係になるものの、彼女との接吻では何も感じられず、彼女の内面や所作にどれほど惹かれようとも、そこに性的な情欲は存在しない。
自分自身は穢らわしい同性愛者などではないのだ。
そんな自信を「私」に与えてくれるはずだった園子という女性との出会いと別れを通じ、「私」は自分が強烈な同性愛者であることを却って強く自覚していく、という構成には妙味があり、流石は三島由紀夫といったところ。
ただ、本作が放つ強烈さ、斬新さというのは、同性愛がよりタブー視されていた時代背景あってのことでしょう。
同性愛自体が「反道徳的」であるという風潮が強かったからこそ、単に同性愛を題材とするだけでなく、「私」の同性愛者ぶりを強烈なまでに生臭く描写し、それはいけないことだという道徳観念との心理的衝突を物語の盛り上がる要素として効果的に据えることができたのだと思います。
令和の世の中では、それが正しいか間違っているかは別にして、同性愛という性愛の在り方は相当程度の市民権を得つつあります。
その環境の中で本作を読み返すと、その生々しい描写の技術や、いったん異性愛らしき何かを経由してから再度同性愛者であることを主人公が自覚することで、その深い同性愛者ぶりを主人公自身に対して際立たせるという構成の妙技には感動しても、「同性愛を描くなんて斬新だ!」というレベルでの感動は起きません。
当時の倫理や道徳には突きつけるものが多かったのかもしれませんが、現代においてはやや力不足であり、くすみつつある古典だと言えるでしょう。
同性愛を描くこと、その有様を執拗かつ生々しく、倒錯ぶりを強調して描くことに加えて、さらに何かもう一つ捻りがなければ、現代においては佳作と評価されるまでにも至らないでしょう。
というわけで、本作の評価は2点(平均的な作品)といたします。
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