だからこそ、より多くの、現在の価値観では悪とされているような創作も認められるべきなのですから。
さて、そんな改変ですが、単行本化に際して行われた「ネットに公開していた絵をパクられた」という結果は、これはこれで完成形かなとも思いました。
本作の犯人による凶行が「京都アニメーション放火事件」を模しているのではないか、という説はSNS上でもよく言及されておりましたが、この認識を半ば追認する形になったと言えるでしょう。
そして、そうしてしまった方が、本作の隠れたテーマである「創作が持つ異形の力」というものをよく表現できていると思うんですよね。
本作の、特に前半部は「爽やかな青春もの」の風体で描かれておりますが、よく考えれば主人公格の二人はとても異様な行動をしているわけです。
運動神経がよく絵も上手で、ユーモアも持ち合わせたており、クラスに何不自由なく馴染んでいた藤野。
そんな藤野は京本の絵に感化され、運動も、学業も、人間関係まで切り捨てて絵の勉強に邁進するようになります。
すなはち、小学生にとっての「社会生活」を辞めて絵に没頭したわけで、人間の熱情をこんな状況にまで導いてしまうほどの力が「創作」にはあるわけです。
京本の場合はもっと分かりやすくかつ典型的で、小・中・高校と学校にすら通わずに絵を描きまくるのですから、もう「創作」の悪魔に身体を乗っ取られていると言っても過言ではないでしょう。
それほど人間の「熱量」を掘り起こす力を持っている「創作」という生業だからこそ、その熱さが負の方向へと向かうとき、そこで殺人という手段が執られることに、これは反倫理的な言動かもしれませんが、あまり驚きは感じません。
自分が製作してインターネットで公開した小説や絵が本当に模倣されてしまって商業化まで漕ぎ付き、大ヒットしたとしたら、そこから生まれる憎しみは想像を絶するものでしょう。
自分の「創作」が模倣され、模倣したやつがのうのうと暮らしている。
自分の熱情と努力が一方的に盗まれてしまっている。
そんな誤解を抱いてしまったが最後、もう相手を殺さずにはいられない。
本作において京本は志半ばで命を絶たれてしまいますが、例えば、学校に通わず絵に命の全てをかけてきた京本が絵で大成することができなかったら、それを他人の責に転嫁しようという心が彼女の中に現れてしまったら、凶器を手に取るのは京本だったかもしれません。
藤野もそうでしょう、そもそもは存在した人間関係を切り捨て、不登校の京本と契りを結んで挑んだ漫画製作。
その結果としてプロになれなかったとしたら、そんなときは、藤野が京本を殺していたかもしれませんね。
「わたしの人生を滅茶苦茶にしやがって」
そんな藤野の叫びが容易に想像できます。
創作に賭けた二人の、熱く輝いていて、それでいて薄ら寒いほどに恐ろしい青春を是非、ご賞味ください。
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