【メディア論】NIKEの差別をテーマにしたCMがなぜ放映されたのかを考える

ナイキ

NIKEといえばスポーツ関連製品やスニーカーで有名なグローバル企業ですが、2020年の11月末、NIKEが製作した自社製品のコマーシャル映像がSNSで話題となりました。

YouTubeでも公開されておりますので、リンクを貼っておきます。

ご覧の通り、CMのテーマは「差別(に立ち向かって自分らしく生きる)」であり、在日韓国・朝鮮人や黒人、あるいは女性全体に対する、とりわけ日本における差別が少女たちの視点を通じて表現されています。

「差別」は様々な意味で世論を二分する繊細なテーマであり、SNS上でも「マイノリティに対する差別を告発し、それに立ち向かう勇気を貰える良いCMだ」のような書き込みもあれば「まるで日本に不合理な差別があるかのような表現であり、NIKEは嘘を放映している」「(マイノリティを過度に優遇する)逆差別のほうが酷いのに」のような書き込みもあり、論争の種になっておりました。

本稿では、このCMが日本における差別の実態を反映しているか否か、あるいは、このCMが道徳的・倫理的に正しいか否には立ち入りません。

その代わり、なぜ、いまこのタイミングで、どのようなプロセスを経てこのCMが放映されることになったのだろうという疑問につき、私がぼんやりと思いついた二つの仮説を簡単に紹介しようと思います。

なお、仮設の検証はいたしません。

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仮説① 商業的に合理的だから

一つ目の仮説は、NIKE内部において、こういったCMがマーケティング的に優れているという確信を持てるだけの分析が完成したからというものです。

取り扱っている製品の性質上、NIKEはマスマーケティングを行わなければならいはずです。

世論の一部でも激昂させるようなCMは打ちづらく、抽象的でふわっとした「良さ」を醸し出すCMづくりを行うインセンティブを持っていると言えるでしょう。

実際、このCMより以前のCMといえば「スポーツ(選手)ってカッコイイよね」という非常に無難な印象だけを与えるようなものばかりだった、という記憶を多くの人は持っているのではないでしょうか。

そんなNIKEが、これほど刺激的なCMを作った背景。

それは、NIKEなりの根拠を持ってマスマーケティングを(部分的に)放棄し「顧客の選別」を行ったのではないか、というのが仮説①における主張です。

現実問題として、ごく一部の相当程度大衆的な人気を必要とする企業(例:マクドナルド、P&Gなど)を除けば、ほとんどの企業にとって万民に好かれる必要はありません。

それぞれの企業が保有している製品・サービスラインナップごとに対象となる顧客層・顧客属性というものは決まっておりますので、特定の属性を持った潜在顧客にだけアピールできれば良いわけです。

言い換えれば、自社製品・サービスに(利益を出すために十分な程度の)お金を払ってくれる人々にだけ訴求するようプロ―モーションを行うことが最も効率的な広告戦略になります。

つまり、潜在顧客以外の人々は最初から切り捨てるわけです。

育毛剤の広告は禿げていない人や禿げる心配をしていない人に対して何かを訴えたりしない、あるいは、レディースファッションのブランドは男性に対して何かを訴えたりしない、といったところです。

さて、こういった考えをもってNIKEのCMを振り返ると、NIKEはこのようなCMに反感を抱く人々を非潜在顧客とみなし、積極的に切り捨てたのではないかという疑念が生じます。

このようなCMに心動かされてNIKE製品を買う人の支払うお金の量が、このようなCMに反感を抱いてNIKE製品の購買を取りやめる人々が支払っていたお金よりも多くなるだろう。

NIKEが100%の商業的合理性をもって動いたとすれば、そのような予測が内部で行われたのでしょうし、そのような予測を支えるだけのデータ(とその分析)を既に得ているということです。

近年、環境に優しいことや、フェアトレードであること、反差別的であることなどのリベラルな社会的価値を満たしていることが、商品・サービスの美点として喧伝されることが増えています。

NIKEがこれほど大胆な舵取りを行ったことを鑑みると、この「社会的価値アピール」で購買意欲を喚起するという手法は結構上手くいっているのかもしれません。

このようなCMを熱狂的に支持する人々の購買力・購買意欲が非常に高いのか、このようなCMに不満を持つ人々の購買力・購買意欲があまりにも低いのか、あるいは、意外とこういうCMも大衆の薄っすらとした支持を得られるのか。

そういった点は分かりませんが、商業的な合理性についてNIKEが確信をもってこのCMを打ち出しているとなると、それこそ、このCMを支持する立場の人々にとっては都合が良く、このCMに反感を抱く立場の人々にとっては都合の悪い社会こそが現実社会になりつつあると言えるでしょう。

仮説② 誰も反対できなかったから

二つ目の仮説はやや穿った見方で、仮説①とはかなり異なった(真逆といってもいいくらい)視点からの意見です。

仮説①でも少し触れた通り、現在の社会ではいわゆるリベラルな価値観が前面に押し出され、そういった価値観に基づいて話したり行動したりしなければ大炎上を引き起こすほどです。

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