「ローマの休日」というタイトルの映画をご存知の方も多いでしょう。
堅苦しい王族生活に嫌気が差した王女アンが、欧州外遊中にローマ市街へと逃亡。
偶然出会った一人の男性とデートをして過ごし、その中で成長するという物語です。
本作の公開は1953年ですが、王女が王族生活に嫌気がさす、なんて感覚を表現した点において時代を先取りした映画になっております。
少なくとも第二次世界大戦以前の世界であったならば、アン王女も「王族生活に嫌気がさす」なんてことはなかったでしょう。
一般市民のほうが貧しくて自由もなく、王侯貴族のほうが豊かで自由に振舞えた時代だったのですから。
しかし、多くの一般市民が豊かさや自由を手に入れた現代においては、アン王女が王族生活に嫌気がさしてしまったように、むしろ皇族・王族が一般市民的な生活に憧れを抱く世界が訪れております。
例えば、イギリス王室を離脱したハリー元王子とメーガン元妃の胸中には王室生活の息苦しさがあったことは確かでしょう。
(もちろん「苦しいことなんて一切ゴメンだ、組織になんて貢献したくない。自分を満足させるためだけに生きたい」なんて我儘は大人が表明するべき感情ではありません。イギリスにおいて王室を離脱した二人の人気が下がり、現王室メンバーの人気が上昇している感覚は正常なことであると思います)
こういった状態は日本においても例外ではなく、小室圭さんとの結婚を熱望する眞子さまの心情には皇室の意思に反してでも「恋愛結婚」することへの熱意があるように思われますし、佳子さまが派手な服装をしたりダンスに打ち込んだりすることも反抗の徴なのではないかと週刊誌が騒ぎ立てています。
普通の学生、普通の若者への憧れがお二人の中にはあるのかもしれません。
(お二人とも学習院小中高→国際基督教大学という進学経路なので、目にする「一般市民」の水準が高いというのもあるでしょう。年収300万円が平均な日本の姿や、東京外に住む庶民の決して豊かではない日常生活など知る由もないでしょうから)
ある程度「豊かで自由な一般市民」に囲まれて育ってしまい、テレビやインターネットといったメディアからの情報も否応なしに受け取ってしまう現代の皇室子女たち。
彼ら彼女らが自らの特別な役割を自覚し、その責任を積極的に果たしていこうという気概を持つのは困難なことだと言えるでしょう。
ただ、皇室の子女たちが「普通」に憧れてしまう風潮も、しばらくすれば変わってくるのではないかと思います。
というのも、一般市民レベルにおいて「普通が一番」という価値観が急速に後退し、特別な自分であることへの憧れが勢いを増しているように感じられるからです。
経済の衰退で平均的な生活レベルが引き下がっていく一方、YouTubeやTikTok、各種SNSなどで特別な人たちの存在を目にする機会は大幅に増加しています。
自分という存在の耐えられない凡庸さにやきもきしている人も多いのではないでしょうか。
例えば、とある凡庸な人に、皇族になりたいかと問えば、なりたい、と回答する人も、いまの社会では多いのではないでしょうか。
確かに、皇族の生活には様々な制約があり、決して自由とは言い難いものです。
しかしそこには、賞賛されるような仕事(公務)や、様々な人間関係が自動的に用意されているのです。
衣食住に困ることも当然にないでしょうから、生活が保障されながら承認欲求を強烈に満たせる地位だと表現することも可能でしょう。
眞子さまや佳子さまも、凡庸であることに悩む人々の声を聞く機会が増えてくれば、自分が生まれながらに持っている特別な地位について、それを誇れるようになるのではないでしょうか。
(その誇りが凡庸ではないという優越感に由来していることは別途問題かもしれませんが)
また、愛子さまや悠仁さまは、そういった社会の風潮を感じ取りながら成長できるのではないでしょうか。
(それでも、学習院やお茶の水のような「一般」が高級な場所では難しいかもしれませんが)
「普通が一番」から「特別になりたい」時代への揺り戻しの中で、日本国民の象徴である皇族の方々がどのような価値観を身に着けて行動していくのか、ちょっと特異な視点かもしれませんが、観察していくのが楽しみです。
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