「鬼滅の刃」で活躍する「優しさ」を持たない剣士たちの話

鬼滅の刃

現代ビジネスに精神科医である斎藤環氏による面白い「鬼滅の刃」評論が掲載されていた。

炭治郎は『鬼滅の刃』で最も謎めいた「空虚な中心」である(斎藤 環) @gendai_biz
『鬼滅の刃 無限列車編』で描かれた炭治郎の「無意識領域」を見て、改めて炭治郎の純粋さを感じた人は少なくないだろう。どこまでも続く水面の上に広がる青い空以外、何もない空間。しかし、その「何もなさ」にこそ炭治郎のある種の「狂気」があると、精神科医の斎藤環さんは指摘する。精神科医が見た、『鬼滅の刃』の「もうひとつの物語」とは...

この中で、斎藤氏は鬼殺隊の「柱」たちがみな鬼による加害または親による虐待を受けた被害者であり、それゆえに戦いの動機に怨恨を孕み、そのうえ、彼らの性格が狂気に満ちていることを指摘している。

ここで重要なことは、鬼殺隊の「柱」もまた、ほとんど全員が――甘露寺蜜璃を除き――鬼による犯罪被害者であるということだ(煉獄杏寿郎と宇髄天元は鬼の被害は受けていないが親からの虐待サバイバーである)。その意味で「鬼滅」とは、「正義の被害者(柱)」が「闇落ちした被害者(鬼)」と戦う物語、でもある

そして留意すべきは、「正義」はしばしばトラウマ的な出自を持つ、ということだ。鬼殺隊の人々が正義の刃を振るうのは、もちろん社会の治安と安全のためではあるのだが、その動機はしばしば怨恨であり、その向かう矛先は鬼であり鬼舞辻無惨だ。その正義は鬼退治の正義であって、その限りにおいて普遍性はない。

「正義」はしばしばトラウマ的な出自を持つがゆえに、しばしば暴走し、狂気をはらむ。「柱」の剣士たちは、そうした覚悟を固めすぎた結果、みんなサイコパスになってしまった、かに見える(無惨いわく「鬼狩りは異常者の集団」)。

炭治郎と禰豆子の処遇を決める柱合会議の場面を見ればそれがわかる。柱メンバー全員、目が“逝って”いる。あの煉獄杏寿郎ですら、会議に諮るまでもなく斬首が当然であると大声で断ずる。宇髄天元に至っては、俺が派手に血飛沫を見せてやるとか正気の沙汰ではない(天元推しの筆者としてはそこがいい)。もっとも、比較的まともにみえる(眼は死んでいる)胡蝶しのぶの言動すらもほんのりと狂気をはらんでいるのだから、柱の狂気は推して知るべしというものだ。

加えて、炭治郎という主人公も狂気に駆られており、優しさはあっても共感力に欠けると斎藤氏は述べる。

炭治郎のキャラクター造形は、少年漫画の王道キャラのようでいて、実は異質な成分をはらんでいる。「悪」である鬼への優しさはその一例だが、そればかりではない。まっすぐ育ったかに見える炭治郎は、その実、別の「狂気」を秘めている。

彼は嘘がつけない(つこうとすると半端ない変顔になる)。絵が描けない。猫や鯉のぼりを描くと異様なモンスターができあがり、歌唱能力はジャイアン並みの音痴。つまり炭治郎は、想像力に問題を抱えている。しかもそのことに自覚(病識)がない

彼の純粋さの表現ともとれるが、この景色を見て筆者は確信した。炭治郎には「想像界」(※)が欠けている。だから「優しさ」はあるが「共感力」には乏しい。そうでなければ(自分のせいで)傷心の冨岡義勇を、蕎麦の早食い競争に誘ったりはしない。

しかし、思うに炭治郎の性格には「優しさ」というものすら存在しない。

彼が妹を想うのは妹が彼の家族だからであり、彼が鬼を殺すのは鬼が彼の家族をはじめとした人間たちを殺すからである。

そこには徹底的な仲間意識、換言すれば家族かそうでないか、同族かそうでないかという「分類」の意識のみが存在しており、人間と鬼のどちらの側に正義があるかとか、誰がどのような積極的理由で優先的に守られなければならないか(c.f.トロッコ問題)という正しさについての彼なりの考えがなく、ゆえに、彼は「優しい」人物が通常感じるはずの葛藤という心理から縁遠い存在となっている。

その点も、斎藤氏は言葉を変えて以下のように語っているが、

それをあえて「狂気」と呼ぶのは、理性によるコントロールの外側にある、というほどの意味である。炭治郎の正義は、理性の産物などではない。だから彼は自身の正義については微塵の躊躇もない。

炭治郎は戦いの最中に、しきりに「考えろ!」と自身を鼓舞するが、にもかかわらず、しばしば考えなしに勝ってしまう。対・猗窩座戦でも「闘気をなくす」ところまでは思い至るが、その後透明な世界に入って闘気が消え猗窩座の頸を落とすまでの過程は、思考とは別のプロセスで、なんとなく成功してしまう。

他人に敢えて、利害関係を超えて「優しく」しようとすること、人間的な思考や理性の現れとして「優しい」行動をすることこそ、「優しさ」と言えるのではないだろうか。

それでは、炭治郎が持っているもの、斎藤氏が記事中で「優しさ」と呼んでいるが、本当は「優しさ」ではない何かとは一体何だろうか。

それは間違いなく「立場」である。

上述の通り、鬼殺隊の面々は鬼による被害や親による虐待という過去を背負っており、その怨恨を糧にして鬼との戦いを続けている。

一方、鬼の方はどうだろうか。

本作において、鬼の面々(特に「上弦」や「下弦」といった主要な登場人物)もまた悲劇的な過去を背負っており、復讐や怨嗟のため、つまり、特定の人物あるいは人類社会一般への怨恨を糧に人間を襲い「柱」たちと戦っている。

その点において鬼殺隊と鬼側に違いはない、どのような過去を持ち、その結果として誰に恨みを抱くのかが決まり、それによって「鬼殺隊」所属か「鬼」所属かに分かれた、つまり、立場が分かれただけなのである。

偶然、「鬼殺隊」側の行動が結果的に人類を守ることに繋がっているので、本作は主に「鬼殺隊」の視点から描かれ、「鬼殺隊」が正義の側だという前提のもと物語は進行するものの、「鬼殺隊」には正義の側に本来あるはずの、正義についての信念と呼べるものがない。

彼らは「立場上」鬼を殺しているだけであって、そこには優しさなどないのである。

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