第5位 「異邦人」アルベール・カミュ
【純文学の力によって暴かれる「共感」の欺瞞】
・あらすじ
主人公、ムルソーの母が養老院で亡くなるところから物語は始まる。
葬儀に参加するために養老院へ向かうも、 涙一つ見せず、母の死体も見ず、ミルクコーヒーを楽しむムルソー。
その翌日には恋人のマリィと海水浴に行き、映画を見て笑う。
何事にも動じず、淡々と過ごす彼だが、頼まれれば友人を助け、話を聞き、遊びに誘われればついてゆく。
その理由は「それをしない理由がないから」だとムルソーは言う。
理性・感情を持ちながら、一切の「人間らしさ」がないように見えるムルソー。
ある日、彼はビーチでアラビア人を殺し、裁判にかけられることになったのだが……。
・短評
味のある良い作品です。
母の死に涙を流し、我を忘れるほど思いつめること、その後しばらくは立ち直れないこと。
そんな人物を、我々は「人間らしさ」のある、「優しい」人物として捉えてしまいがちです。
いや、世間ではそう「捉えることになっている」と言う方が妥当でしょう。
しかし、ムルソーの裁判を見ればそれが欺瞞だなのではないかという思いが胸を衝くようになります。
「アラビア人を一人殺したことを裁く」
ただそのためにあるはずの法廷では、彼が母の死をどれだけ悼んだか、人を殺した時どういう気持ちだったかということが争点になってしまいます。
罪ではなく、ムルソーの人格を裁く法廷。
「母の死は悲しかったが、次の日には遊びに行った」
「人を殺したのは太陽が暑かったから」
そう証言する彼は次第に狂人だと見られるようになっていきます。
彼の量刑が重くなっても、死刑でも仕方がない。
陪審員たちはそう考え始めます。
しかし、物語を通じてこの作品が読者に訴えかけるのは、まさにこの欺瞞なのです。
彼が狂人(=我々とは異なる考え方を持っている)である、ただそれだけのことで、彼の罪が重くなる。
いかにも人間らしい人物がそれを行ったとしても、冷徹な狂人がそれを行ったとしても、一人を殺したという事実は変わらないのに。
犯人の人間性が「一般的常識的な人間」といかに乖離していのか。
裁判ではそれなかりが取り上げられ、罪そのものの検証をなんら行われません。
終盤、死刑を待つムルソーに神父が特赦願いを勧める場面でこの物語の真理性は最高潮を極めます。
ムルソーを「世間」の側に戻そうとする神父を、彼は決然と拒否し、自らの手で死を選び取るのです。
しかし、それすら一つの論理的決断にすぎない。
「みんながそうだと思っている」に過ぎない「常識」を、正義や道徳といった至高の概念と同一視しようとする我々の愚かしさがここに暴露されます。
1940年代の作品ですが、「共感」が極めて重視される風潮にあり、また、従前より「同調圧力」が高いとされる現代日本にこそよく刺さるのではないでしょうか。
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