そこには、青春小説における恋愛という要素の全てが詰まっている。
そこまでの感想を持たざるを得ないほどの名場面です。
また、恋愛ではなくテニス関係で一番好きなのは、燎平が退部をかけて格上の相手と部内戦を行うエピソードです。
スランプに陥っている燎平と、後輩ながら実力があり、なおかつその実力を奢っている「ポンク」という渾名のテニス部員。
ひょんなことから両者は退部を賭けた試合をすることとなり、テニス部員たちが見守る中、燎平にとって絶望的な試合が始まります。
しかしながら、燎平はこの試合を通じて新しい自分へと生まれ変わってスランプを脱し、最終的にはポンクを破るのです。
テニスとは何か、人生とは何か、そんなことを考えながら試合に臨む燎平のテニスには気迫と闘志が漲り、逆に、生ぬるい環境に甘えて生きることしかしてこなかったポンクの精神が徐々に乱れていく。
技術が劣っていても決して諦めず、必死の思いで球を打ち返す燎平が少しずつメンタル的な優位を構築していく様子。
それが濃密かつ繊細に描かれる試合の描写はまさに、小説におけるスポーツ描写の金字塔とでも表現したくなるほど。
遼平がなぜ、テニスとは、人生とは、と突き詰めて考えながら試合をこなせたのか。
その理由は、試合の様子を文学部の辰巳教授が見ていたからというもの。
教授が大病に倒れて輸血が必要になった際、献血を申し出た生徒の一人が遼平でした。
そんな燎平に、辰巳教授はお礼として一万円と自筆の色紙を送ります。
色紙に毛筆で書かれていた文字は「潔癖」という二文字。
生死の境を彷徨った老教授が、血を分けてくれた若人に向けて贈った言葉。
「潔癖」の二文字に感銘を受け、自分のテニスと人生についての考え方を変えていき、精神的な成熟を果たしていく、そんな燎平の瑞々しい感性には涙を我慢できなかったのが正直なところです。
そして、燎平以外の登場人物たちが彩るサブエピソードの中で一番好きなのが、安斎克己と彼の心を蝕む精神病の話です。
精神病を患いがちな家系に生まれ、素晴らしいテニスプレーヤーでありながら、精神が「おかしくなる」恐怖と常に闘い続けている安斎という青年。
燎平たちとの友情でも、熱中できるテニスという競技でも救われない彼の心が抱える闇の深さ、その描かれ方が実にせつなくて胸をうたれます。
友情と愛情を巡るエピソードが多いからこそ、ひたひたと迫る「おかしくなる」の危機に対して孤独な闘いを挑まざるを得ない彼の境遇はいちだんと悲壮に感じられる構図となっており、本作における人間の「こころ」についての問題提起や、「生き方」についての言外に語られる哲学に深い波紋を投げかける要素になっているのがにくいところ。
安斎を待っている結末と、その結末にそれぞれの想いを寄せる燎平たちの姿にはやりきれない感動を覚えること間違いなし、というエピソードです。
そんなわけで、青春時代における熱情と哀切を見事に描き切った本作のエッセンスたるエピソードを紹介いたしましたが、それでも、本作の溢れんばかりの魅力はまだまだ伝わりきっていはいないだろうと感じます。
本作はその終わり方も見事で、燎平の夏子への想いが実るのかという場面が最後に訪れます。
物語を原点回帰させ、最後の最後まで読者の心をドキドキさせる手腕にはもう平伏するばかり。
人生の中で燦然と輝くような、人間の持つ「業」を強く意識させる場面が連発され、捨てシーンや捨てエピソードがまるでないという、本当に稀有な作品です。
敢えて欠点を挙げるならば、女性の描き方にややリアリティがないかなと感じる箇所もありますが、それでも100点ではないというだけで、凡百の作品に比べれば断然レベルが高く纏まっております。
本ブログで紹介した中では、カズオ・イシグロの「日の名残り」と並ぶ小説界の大傑作。
これを読まずに死ぬなんてあまりにも勿体ない、こういった作品に出合える可能性があるからこそ明日を生きようとまで思える、そんな物語です。
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