1956年公開のモノクロ映画。
監督はヴェネツィア国際映画祭で2度のサン・マルコ銀獅子賞に輝いた往年の巨匠、溝口健二さんです。
いまはなき「赤線地帯」のリアリティを上手く描いているという点では(とはいえ、私は赤線がなくなった後の生まれなので本当にリアルなのかは分かりませんが)良いと思いましたが、フィクションゆえ、映画ゆえの物語性にあまりにも欠ける作品だと感じました。
2. あらすじ
物語は吉原(=赤線地帯)のとある売春宿「夢の里」。
売春防止法が国会で審議され、赤線地帯の存続が脅かされているなか、今日も「夢の里」では娼婦たちが客の相手をしていた。
この時代も娼婦は堅気の商売だとは見なされておらず、彼女たちはそれぞれ、暗い事情を負ってこの場所で働いていた。
ハナエには病気で働けない夫と小さな子どもがおり、彼女が家計を支えている。
ゆめ子は身体を売りながら女手一つで一人息子を育てたが、その一人息子とは疎遠になっている。
やすみは客に結婚詐欺を仕掛けて金を貯め、この生活からの脱出を夢見ている。
ミッキーは家出娘であり、親に頼れないために「夢の里」で稼いでいた。
そんななか、普通の結婚生活に憧れるより江が堅気の男性との結婚を決める。
お祝いムードになる「夢の里」。みんなで明るくより江を送り出したものの、「夢の里」での生活に慣れきったより江は堅気の生活に耐えきれず、「夢の里」へ帰ってきてしまう。
他の娼婦たちも自らの夢や目標のために四苦八苦するのだが......。
絶望と鬱屈、刹那的な感情。
いまはなき「赤線地帯」の生活模様。
感想
「あらすじ」に書いたような娼婦たちの生活が丹念に描かれている、というのが第一の印象です。
当時の風俗(生活様式という意味で)や、売春がどんな立場の人々からどう扱われていたかなど、資料的な意味では深い価値のある作品だと思いました。
しかし、そこには「物語」が足りません。
もちろん、この作品がノンフィクションであり、現実の取材を緻密に再現したものとして売り出されているのならば高評価を与えられるでしょう。
ただ、あくまでフィクションの映像作品とするからには、視聴者に驚きや感動、人生への洞察を与えるものでなくてはならないですし、もっと言えば、フィクション性(=嘘)によってそれが与えられなければなりません。
フィクションであるからには、物語や設定、トリックやギミックをある程度自由に動かすことができ、そういった創作者の裁量の部分が視聴者の心を動かしてこそだと思うのですが(そうでなければ現実の映像の方がよほど価値があります。そこに映っている人々の喜びや悲しみ、苦痛は「現実に起きたこと」というのは何より重要です。フィクションがノンフィクションを超えるには、フィクションだからできること(=嘘)を上手く使ってノンフィクションでは不可能な感動や洞察を引き出せるか否かにかかっています)、この作品に出てくる娼婦たちの「過酷な運命」とやらはあまりにもベタ過ぎます。
生活が苦しくて自殺を図る、娼婦だからと息子に縁を切られる、家出娘を迎えに来た親を拒絶する。
ただそれだけの展開です。
もちろん、現実ならば悲惨で胸が苦しくなりますし、現実にこういったことが起こっていたのでしょう。
ただ、創作物だという看板を掲げながらそれを垂れ流すのでは「作品」にはなりません。
手軽に入手できる「赤線地帯」の資料映像として扱うのが適切でしょう。
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