1. トーマの心臓
少女漫画界の伝説的至宝で、ついに紫綬褒章まで受賞してしまった萩尾望都さん初期の傑作です。
愛と信仰という重いテーマを鮮やかに描き切った、まさに「文学」と呼べる漫画といえるでしょう。
2. あらすじ
舞台はドイツのギムナジウム(中高一貫校)。
冬のある日、ギムナジウムの生徒であるトーマ・ヴェルナーが陸橋から足を滑らせて転落、事故死する。学園のアイドル的存在だったトーマの死にギムナジウムが動揺するなか、寮の舎監にして委員長、ユリスモール(ユーリ)・バイハンのもとに一通の手紙が届く。
ユーリに届いた手紙。それはトーマが死の直前に記したものであり、トーマの死が自殺であることを示す手紙だった。トーマに想いを寄せられていたことを知っていたユーリは、その手紙を読んで激しく動揺する。
そして、ユーリが意を決してトーマの手紙を破いたその日、ギムナジウムに転入生がやってくるのだった。その名は、エーリク・フリューリンク。愛らしい姿をした転入生の容姿は、死んだトーマにそっくりだったのである。
ユーリとエーリク。
意識しあいながらも反目する二人の関係が、やがてギムナジウムと二人の人生に大きな波紋を投げかけてゆく。
3. 感想
70年代とかなり昔の漫画ですが、なかなか心打たれました。人の心の弱さと優しさ、それが「許し」という概念を通じて表現されています。最終版の展開から振り返れば、物語の中心となるのはユーリの心境の変化です。成績優秀、品行方正な委員長だが、冷徹な一面があるユーリ。死ぬほどにユーリを愛したトーマの愛にさえ冷淡な態度を示します。一般的に見れば「気に食わないやつ」なユーリに、エーリクが当初、反目するのも頷けます。
しかし、ユーリが他の生徒からめっぽう嫌われているかというとそうではありません。ユーリの親友、オスカーをはじめ、多くの学友がユーリを愛していることが、彼らが示す態度から分かります。また、ユーリが昔から冷たい人間だったかというと、ある時を境に変わってしまったということがオスカーから仄めかされます。
そして中盤、エーリクもついに、ユーリの心の底にある優しさに気づくのです。
ユーリが心を閉ざしてしまった事件。ネタバレになるので詳細には踏み込みませんが、それは自らの信仰を酷く裏切るような行動を自分がとってしまったこと。そのことにユーリは囚われ、罪意識の牢獄へと迷い込んでしまっていたのです。
終盤、ユーリはついに、自分がどれほど周囲から愛を受けていたかに気がつきます。自分が行った所業に周囲が愛をもって「許し」を与えていたことに気づいたユーリは、晴れて信仰を取り戻し、将来を自ら切り開いていくのです。私もそうですが、みなさんにも、自らの道徳心に悖るような行動をしてしまったことがあったり、自分自身の性格や能力に心の底から嫌になる側面を見つけてしまったことがあるのではないでしょうか。
そんな時、自分や、(信じている人ならば、自分を創った神)に絶望し、ふさぎ込み、冷笑的になり、自己嫌悪に陥り、何もかもが無意味に見えてしまうに違いありません。
そんなとき、誰かが「我慢」することによってではなく、「許す」ことによって自分を受け入れてくれたら、しぶしぶではなく、そのままの、過ちを犯してしまうくらい弱いあなたを愛していると言ってくれたら、どんなに救われた気持ちになるでしょう。
ユーリは最後、オスカーの言動を通じて、人間にはそのような「許し」を行う力があることに気づき、そして、周囲の誰もが、自分を「許し」てくれていたこと、真の愛をもって接していてくれたことを悟るのです。誰かの友愛を、心からの友愛を感じた瞬間の、胸が昂揚で熱くなる感覚。あの喜びがひとしおであることに共感しない人はいないでしょう。
誰もが一度は通る、絶望と友愛の感覚。それを凝縮した名作です。
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