1. キャッシュフローと損益分岐点の見方・活かし方
タイトルの通り、会計関係の実用書で、売上・利益・変動費・固定費の関係と、営業利益・キャッシュフローのそれぞれでみた損益分岐点について、その計算方法と有用性が紹介されています。関係性の図表と計算式とが各ページに分かりやすく記載されており、辞書的に使用するのも効果的な本だと思います。
さて、普段はそんな本をこのブログで紹介することはないのですが、読んでいて思うところがあったので書こうと思います。それは、初等・中等教育における算数・数学の話。「学校の勉強は役に立たないのか」についての話です。
2. 感想
「学校の勉強なんて役に立たない」
それは学校教育が始まって以来、様々な観点から議論を呼んできた古典的な論点の一つです。グラデーション的に色々な立場がありますが、最も強硬な立場としては、基礎的な読み書き(国語)や計算(算数)以外は実社会では使わないので無駄であるというものです。やや洗練された理論においては、たとえ使うとしてもOJTの方が実用的な知識や技能を迅速にかつ最も役に立つ形で覚えられるという補論を打ち立てるでしょうし、リカレント教育の普及が叫ばれる中では「必要が出たら/興味が出たらその時に適切なレベル/種類の学校に通えばいい」という理論も一定の説得力を持っています。必要or興味に押されて積極的に学ぶので、結局は「非実学(研究者?)」を育てるのにも効率的だという切り口さえあり得るでしょう。
もちろん、学校教育の重要さを説く立場からも多くの反論が寄せられています。近年の「教養ブーム」もそのような立場の考えを反映しているのでしょう。結局、歴史や思想、科学についてある程度の知見がなければより上の立場の人間として結果を残すことができない、そういった「教養的知識」から気づきを得たり、失敗を先回りして防ぐことが肝要だということです。確かに、歴史や研究が積み上げてきた反省や教訓を得ないままに失敗を繰り返すのは不効率ですし、とくに深刻な失敗は取り返しのつかない(それは社会的な意味でも、人生の中盤以降という意味でも)ことがありますので、そのリスクを回避できることは細々したOJT実用知識の寄せ集めよりも却って重要かもしれません。
また、近年においては、「体系的かつ長時間にわたって集中して机上の学習に取り組まなければ実用的レベルまで達しない分野」というのも現れてきています。プログラミングや統計といった分野が顕著な例であり、特に成熟した経済を持った国においてはこういった高付加価値で専門的な分野を強化しなければ経済の質的水準を保てないことは必至です。日本政府も小学校からプログラミング教育を導入するなど、力を入れようとしていますね。
しかしながら、多くの人がそういった高付加価値分野におけるエリート専門家になるのか/なれるのかという疑問に対しては、それは違うと言わざるを得ないでしょう。確かに、全員がそうなる「べき」であるというのは理解できますし、そうならなければ高付加価値経済に移行できないというのもその焦燥は理解できます。しかし、欧米の先進国を見るにつけても、かつて多くの中産階級ホワイトカラーを生み出したような勢いでは新中産階級専門家を生み出しているとは言い難く、むしろ多数派中産階級の没落と少数派専門エリートの格差が広がっているのが現状です。
結局、あまりに高度な知的技能は使わない/使えないという現実の前に、果たして初等・中等教育は何を/どこまで/どのように教えるかという問いの価値は輝きを増しているように思えます。もちろん、美しい純白の輝きではなく、鈍色の論題としてではありますが。
その解決策として、他国の教育方法を参考にするのも良いでしょう。北欧やフランスの義務教育方法が日本と大きく異なっていることはよく知られていますし、そういった国々のハイ・パフォーマンス(単に短期的な経済のパフォーマンスだけでなく、人口動態や環境といった持続性の観点から、あるいは人々の幸福といった異なる尺度の観点から)を根拠にそういった教育法の日本への導入を強く推す人々もいます。
また逆に、中国や韓国に敗北していくことへの危機を重視する人々もいるでしょう。両国とも日本のような「部活」はなく、7時間目8時間目が当たり前な韓国や中国都市部から排出される人材はエンジニアとして非常に優秀で、もう一昔以上前から日本の産業界を引き離しております。知識詰め込み・反復学習の徹底も成果がないとは言えなさそうです。
とはいえ、日本の教育環境をいきなり劇的に変えるのは政治経済の構造的にも難しいものがあるというのが現実です。小学校での英語やプログラミングの導入も今更ですし、その手法も徹底的で効果的なものとは言い難く(「誰」がプログラミングを教えるのでしょうね?)、かつ、大学や大学院で専門的な教育をみっちり行うということも企業は重視していません。最近になってようやく国際教養大学などが注目されだしましたが、これでもまだ「英語」や「外国の文化に溶け込める」といったOJTの代替を大学がやってくれているという程度のメリットを見出しているにすぎません。
前置きが長くなりましたが、こういった状況を鑑みつつ、一つ「有用な小手先の変更」があるのではないかと考えたのが本記事の主旨となります。
まず、本書の114ページに記載されているケーススタディを紹介いたしましょう。
売上高1億円、原価9,500万円、当月利益500万円の企業があるとします。
・売上高:100,000,000
単価:10,000
販売量:10,000
・直接材料費(変動費):40,000,000
単価(製品1台あたりの費用):4,000
生産量:10,000
・直接労務費(固定費):25,000,000
単価(製品1台あたりの費用):2,500
生産量:10,000
・製造間接費(固定費):30,000,000
単価(製品1台あたりの費用):3,000
生産量:10,000
内訳は以上の通りとなっており、ここで次月の値決めをする状況にあるとします。現在は(A)販売単価が10,000円ですが、これを(B)1,000円下げると2,500台多く売れ、(C)2,000円下げるとさらに3,000台多く売れます。人と機械の余剰はあるため労務費(月給制)と製造間接費(機械のメンテナンス費用)は生産量に関わらず固定とし、直接材料費だけが生産量に比例して上昇するとした場合、どの選択肢が一番儲かるのでしょうか。
答えはどの選択肢なのか、ということの前に、本論の主旨に密接に関わる重要な問いかけがここで現れることに注目して欲しいのです。それは、答えに「ピンとくる」人はどれくらいいるのか、あるいは、答えを導くための計算式が頭の中に「すっと思い浮かぶ」人はどれくらいいるのかということです。
もちろん、1パターンずつ具体的な数字を使って計算してみるのも良いでしょう。例えば(B)の場合、売上高は9000円×12,500台=1億1,250万円、変動費は4000円×12,500=5,000万円、固定費は変わらず2,500万円+3,000万円となり、利益は750万円になります。ちなみに、この(B)が答えになっております。
ただ、現実には選択肢が3つということはあり得ません。こちらが価格決定力を持っているとすれば1円単位で刻めるわけですし、他社との折衝のなかでも非常に細かい単位での攻防が繰り広げら
れるわけです。
それでは、無限の選択肢に対してどのように対応するのか。もちろん、答えは以下の数式になります。利益をf(x,y)、生産台数(=販売台数)をx、売値をy、変動費単価をb、固定費をbと置くと、
f(x,y)=xy-ax-b
このような式ができます。売値の下げ幅と販売量の増加数との関係が設問からは読み取れないのが厄介ですが(きっと2次関数になるでしょう)、それが分かればxとyの関係が分かるので変数を1つにすることができ、最大利益を出す価格を求めることができます。
この問題、少しややこしいですが、使用するのはあくまで中学校・高校初期の数学レベルです。本書には他にも様々な例(追加発注を受けるべきかどうか、キャッシュフローの損益分岐点はどこか)が出てきますが、要素が多いものの全て1次関数か2次関数で処理出来てしまうものです。あくまで中学校~高校1年生くらいまでの数学しか使用いたしません。
そして重要なのは、こういった問題は誰もが直面するものだということです。営業、企画、調達、経理、人事(労働市場への投資と回収や社員教育への投資と回収に使うでしょう)、どの分野で働くにしてもこれを意識しないわけにはいかないですし、製造業はもちろん、アパレルやスーパーマーケット、外食などの小売りや飲食業でも必須の能力です。アパレルや外食の店長クラスや町の工務店の幹部クラスがそれほど高学歴でない現実を考慮すれば、とんでもない芸術家や職人にならない限り、ほぼ全員が将来に渡って使用するであろうことが明白な技能です。フリーランス(個人事業主)がこれからも増え続けるという時代にあっては一層、この傾向は強まるでしょう。何でもかんでも自分でやるか、もしくは手数料を払って誰かにやってもらうしかないわけです。その時、何でもかんでもやる場合はもちろんのこと、そうでない場合も「手数料」の損益分岐点を考えなければならないでしょうし、「誰か」という雇用先に就く人はこの技能を使うわけです。
しかし、実際には「学校の勉強なんて役に立たない」という声がそこそこ聞こえてくるわけで、本書のような実用書が発売されていることを鑑みても、上述のような計算と「学校の勉強」が関連するものとして連想されないというのが現実の状況であるわけです。
そして、それもそのはずである、というのが教科書を見てみれば分かることです。教科書の例題、文章題というものは、あくまで消費者としての私たちを想定したものばかりです。予算内でリンゴとバナナを購入したり、先に行った兄を弟が追いかけたり、自動車や飛行機を使って旅行したりといった具合にです。
しかし、そこで置かれている仮定は妙に非現実的なものばかりなのです。スーパーに行けば、予算は意識するものの、むしろ「必要なものを手早く・できれば少し安価に買う」くらいの感覚が強いでしょうからやたら細かい数式を頭に浮かべたりしませんし、忘れ物をした兄を追いかけるときは数式など考えずに全力ダッシュでしょうし、旅行の計画は「楽しむ」という数量で計りきれない観点が強いのでやはり異常に細かく数式から考えて唯一の厳密な答えを数字として出したりはしないでしょう。ざっくりどれくらいの金額で、詳しくどれくらいの楽しみを得られるのかを意識するはずです。
こうなると、そもそも問題を解く段階で、「こんなものは使わない」という冷笑が頭にこびりつくわけです。成績優秀層も、「これは『教科書の問題』なのだ」と、その建前性を胸に留めてしまうでしょう。強引なまでに生活に密着しようとすることで、却って「身近ではない」という意識を惹起させてしまっています。
しかし、「もしあなたが経営者/生産者だったらどうするのか」という文章題を出せば意識は一変すると思います。確かに、小中学生にとって身近ではない、普段は使わない技能です。しかし、そこに書いてある文章は、いかにも「将来使いそう」で、なんとなく「『社会』ではこういうことをやっているのかなぁ」というものになるはずです。特に「なぜそれをするのか」に鋭敏だと言われる現在の世代に対して、この手法は非常に有効なのではないでしょうか。この問題が分からない、というときに、「分からないのはヤバいことなのではないか」という危機意識を持たせることができますし、「そんなことして何になるの」と言ってしまう教育リテラシーの低い親を持つ子供にとっても、親に問題文を見せれば学習への熱意を多少は納得をしてもらえるのではないでしょうか。低教育リテラシーな親の家庭からは勉強熱心な子供が出づらいということそのものが大きな社会問題ですが。数少ないそういった子供を守ることが社会全体の発展や公平性の実現に結びつくはずです。
もちろん、このような方策を採っても一定数の「諦める」層は出てくるでしょう。しかし、諦めた側からしても、そこから生まれる格差に対しての納得感が生まれるはずです。得体のしれない知識や技術を使って富裕層や上位中産階級がお金を掠め取っているわけではない、より低価格でより多くの良質な製品/サービスを供給して社会を向上させる方法を知っているから多額の報酬を得ているのだということが教育課程での経験から連想できるはずです。格差に対して異議を唱える声が大きい中(もちろん格差の是正は大事ですが)、それが罵声と暴力を浴びせるような深刻な社会的亀裂になるのではなく、お互いに理があることを認め合いながら協調していくことの一助になると思います。
そして何より、こういった細かい点の変更は、「あなたは消費者にとどまらず、経営者(の一部)になるんだ、なって欲しいんだ」という明確なメッセージになります。どんなにお題目を叫んだところで、「一人一人が自律/自立して云々」と言ってみたところで、小中学生が普段接する「教育」からそれを感じられなければ意味がないでしょう。それはまさに、意識の問題なのですから。
「高校数学でできる」、「中学校までの数学知識でできます」、そんな言葉が帯を彩る本が多い昨今、却ってこう考えることが大事なのではないでしょうか。「なぜ中学/高校数学はそれを教えないのか」。
そんなことを考えながらの読書でした。
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