1. コクリコ坂から
宮崎駿さんの息子である宮崎吾郎さんが監督を手掛けたスタジオジブリの作品。とはいえ、企画・脚本は宮崎駿ですから、ほとんど共作といってよいでしょう。1980年に発売された同名少女漫画が原作。とはいえ、映画の内容はかなりオリジナル成分の強いものです。
ファンタジー要素のない普通の学園ものをジブリが制作するのはなかなか珍しいことですが、名作に仕上がっています。スケールは大きくないながら非の打ちどころのない作品で、 話の盛り上げ方や見せ方など、他の作品に範として欲しい要素が多く含まれています。
2. あらすじ
舞台は1963年の横浜。女子高生である松崎海(まつざき うみ、通称「メル」)は、祖母が経営する下宿屋「コクリコ荘」で家事全般を担当している。というのも、船乗りだった父は朝鮮戦争で亡くなり、母は仕事でアメリカに出張しているからだ。
一方、海が通う港南学園高校では文化部の部室棟である「カルチェラタン」が取り壊しの危機に瀕していた。取り壊し回避に奔走するカルチェラタンの住人たち。文芸部に所属して学級新聞を刊行している風間俊(かざま しゅん)もその一人であり、風間が池に飛び込む事件やメルが新聞作成を手伝うことなどを通じて、二人は次第に惹かれあっていく。メルの提案で取り壊し回避のためのカルチェラタン大掃除も決行され、その成果もあって、全校生徒の過半数が取り壊し反対に回るなど、全ては順風満帆かと思われた。
しかし、学校側はカルチェラタンの一方的な取り壊しを通告し、生徒たちのあいだには動揺が走る。ほぼ時を同じくして、メルは風間と自分との重大な関係に気づいてしまう。二人は異母兄妹かもしれないのだ......。
3. 感想
良い物語の条件をこれでもかと揃えた、欠点のない作品です。冒頭はメルがコクリコ荘の下宿人と祖母・妹弟のために朝食を作るシーンから始まるのですが、異なる時代を描く作品の開始として素晴らしい手法だと思います。父親や母親の不在を語らずとも示すことで視聴者の頭に興味を惹く引っかかりを作りつつ、そういった状況では女子高生くらいの「長女」が家事一切を行うのが当たり前だという価値観。そんな旧い価値観に基づいて人々に与えられる役割を通じ、いまから描き出そうとする時代を表現しています。もちろん、父親や母親の不在は他の登場人物に言わせたりナレーションに言わせたりすることもできるのでしょうが、それよりも与えられた条件から視聴者自身が「発見」する方が印象に残りますし、「なぜ他の人がそのことに言及しないのか」という二重の引っかかりを持たせることもできます。また、せっかく映画の世界に入っていこうというときにナレーションがあっては没入感を削いでしまうでしょう。年代も古い町並みを見せることで知らせることもできますが、この物語は「町並みが古いこと」ではなく「旧時代の価値観」が強く筋書きに影響して展開されていくことを思えば本質を突いた表現方法です。
そして、次に描かれるのが何気ない登校シーンやカルチェラタンの様子。登校シーンでは立体感のある構図が強調され、カルチェラタンの物が散らかっている様子や無数の学生がてんやわんやしている様子が描かれます、これらにはジブリ映画の「絵」にかけられる技術・資金・時間が存分に生かされており、全てが「最も手間がかかるが最も画面が溌剌とする絵」で描かれていることで映像に刺激を与え、日常シーンにおいても視聴者を飽きさせません。
しかし、本作の本領、こうした演出面の良さをさらに上回るのが脚本です。この映画を観ていて最初にぐっとくるのは生徒たちがカルチェラタンの取り壊しを巡る集会を行う場面ではないでしょうか。賛成派と反対派が入り混じって荒れ模様の集会ですが、外の見張り役が教師の来訪を合図すると賛成派も反対派も態度を一変。生徒会長である水沼史郎(みずぬま しろう)の歌いだしとともに当時の流行歌「白い花の咲く頃」を合唱します。乱闘騒ぎの集会を教師に見つかってしまっては罰されるかもしれないし、自由に論じあうこともできなくなる。だから、教師が来たら賛成派も反対派もみんなで歌う。単なる平和な歌を歌う集会ですよという建前を見せつける。立場は分かれていても論じあう舞台を守りたい気持ちは同じという、この「粋」な心の繋がりをこういった小さな事件を通じて描く。言葉でそのまま言わせるのではなく、行動させることで視聴者に彼らの胸の内にある熱いものを想起させる。これこそ映画における「見せ方」の技術であり、同じようなテーマであっても感動する作品とそうでない作品とを分かつ要素だといえるでしょう。間が持たないからと最後に水沼が独唱を付け加えるのもまさに「粋」ですよね。
他にも、絵描きがコクリコ荘に下宿していて、その絵からメルの揚げる旗に返事をしている船があることを知る(実は風間の船)という展開はさりげなくも静かな感動が伝わってきますし、お肉の買い忘れを誰もフォローしてくれず自分で買いに行くことになったメルが偶然に風間と出会って自転車で送ってもらうなど、不条理の中で頑張っている人がそれゆえに幸運に恵まれるという見せ方もやはり「粋」です。なにより、カルチェラタン取り壊し反対に際して、「正当性を主張して言論で迫れば学校も考えを変えるだろう」という「正しさ押し付け論」に陥っていた反対派に対し、「掃除をして、大切に使っているところを見せればいい」というメルの提案もまさに「粋」。「主人公の登場とその機転・意外な発想で状況が好転する」というカタルシスを生んでいますし、しかも、普段から古宿の手入れを欠かしていないメルならではの視点というのも、設定との有機的な繋がりがあって物語全体の説得性やはっと胸を衝かれるような感覚を増しています。
そういった小さな感動の積み重ねの先にある、本作の最も盛り上がる場面こそ、中盤から終盤にかけての「わたしたちは兄妹かもしれない」にまつわる一連の展開。青春物語の恋愛パートで、二人に立ちはだかる壁が「もしかしたら兄妹かも」というのはなかなか思いつけません。あからさまな悪者が邪魔をするのならば「しょせんは作り話」と思ってしまいますし、病気や引っ越しなどでは「ありきたり過ぎる」でしょう。現実でそんな悪者がいたり、病気や引っ越しがあればもちろん胸を引き裂かれるような思いなのでしょうが、いくらでも嘘をつけるフィクション作品の設定として使ってしまっては興醒めです。「もしかしたら兄妹かも」という斬新な壁を持ってきただけでも素晴らしいですし、「実は兄妹じゃなかった」と分かる前の段階で、「兄妹でもやっぱり好き」とメルに言わせるのも良いですよね。愛の前に立ちはだかる倫理の葛藤、そして倫理を超えてでも結ばれたいという思いが二人の繋がりの強さを示し、最後、兄妹ではなかったと分かると、そこに残るのは「兄妹でもいい」という悲壮なまでの強く熱い恋愛感情を持った(しかし兄妹ではない純粋な恋人同士の)二人。ただ「好き」というだけではない、その「好き」のためになら重大な倫理をも踏み越えられる。そういった展開があるからこそ、「好き」の本物度合いが手に取るようにわかって感動するわけです。
しかも、最後まで実は兄妹である一抹の可能性をほのめかすような、その可能性は限りなく低いけれどもゼロではないことを匂わせているのも脚本の妙であると思います。本当に兄妹でないと証明される必要なんてない、兄妹ではないと周囲が扱ってくれる条件さえあれば十分。そんなことは関係なく愛し合っているのだからという側面を曳き続けることで絶妙な余韻を残します。風間俊と澤村雄一郎(さわむら ゆういちろう、メルの父)はどちらも岡田准一さんが声をあてていることや、風間の義父である昭雄(あきお)が「雄一郎と似てきた」と風間に語りかけることにも含みがあります。
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