ヒロインであるはずの光希という人物にそういった人間として当たり前の心理的動揺が見られず、ヒーローである遊も「優しい言葉を出力するようプログラミングされた、表面的な『優良人間』要素を全て詰め込んだ人型ロボット」のようにしか振る舞わないので、まるで機械が台本を棒読みで読み上げている会話を見ているような錯覚に陥ります。
ヒロイン&ヒーローに読者をひきつけるような欠点や人間味がなく、読者はただベルトコンベアのように「好き」という感情が流れていくのを見るだけなのです。
光希のことを好きな銀太(ぎんた)や蛍(けい)、遊のことが好きな亜梨実(ありみ)といった面々も、突然に現れては理由もなく「好き好き」を繰り返すだけで、見た目が違うだけで性格はカーボンコピーな人間がうじゃうじゃと登場するだけの作品になってしまっています。
遊と銀太がペアになってテニスの試合に臨む話や、遊のCM出演話など、主要なエピソードにも読者をはらはらさせるような起伏が全くありません。
1990年代当初の少女たちはこの漫画の何を楽しみにしていたのだろうと、心の底から疑問に思います。
③登場人物を増やすことでしか物語を広げられない
上述のように、人物造形とそれぞれの人物の行動、あるいは特徴的なエピソードによっては全く物語を盛り上がらせることができない本作が、どのようにして単行本8巻分もページを保たせていること言えば、それはただひたすらに登場人物を増やす手法に頼りきっています。
既存の登場人物の性格をより深く掘り下げるようなことなどせず(掘り下げられるほど深くて複雑で人間味のある「性格」など用意されていないのでしょうが)、恋愛の当て馬を雑に登場させては周辺人物と雑にくっつけさせて片付けるという展開が繰り返されます。
当て馬が光希や遊を好きになる理論は謎に満ち溢れており、また、当て馬たちの行動も奇妙で突飛なものばかりです。
そして、ちょっかいをかけてくる当て馬たちに対する光希や遊の反応も実に画一的。
「俺/わたしはやっぱり光希/遊のことが好きだから」
このパワーワードで一蹴して終わらせるだけであり、なんの芸もありません。
当て馬が来るからにはもう少し光希や遊の心理が動揺して二人の恋の行方が心配にならないと、物語の起伏として何の意味も果たしません。
ボールの壁当てをするように機械的な調子で跳ね返されていく当て馬たちを、読者は呆然と眺めるだけなのです。
4. 結論
けなしてばかりになってしまいましたが、正直のところ、本当に一つの美点も発見することができない作品でした。
唯一、無理にでも褒める点があるとすれば、それは遊の無味乾燥な理想的ヒーローとしての在り方でしょうか。
「イケメンでスポーツ万能で勉強もできる人物」として非の打ちどころがなく、それでいて、機械のように盲目的にヒロインを「好き」だと言ってくれる都合の良さ。
こういった、「便利」な装飾品兼精神保護者としての彼氏像をどこまでも淡々と貫いてくるのは逆に開き直り過ぎて希少性があるのかもしれません。
何の取り柄もない主人公が、なぜか飼うことができている「奴隷」という意味では、昨今の「なろう系チーレム異世界転生」にも通じるものがあります。
少女たちにとってご都合主義の権化としての作風を貫いた先に、商業的勝利が待っていた作品なのでしょう。
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