状況はあまりにも理不尽かつ不条理であり、なおも搭乗拒否をしたろころで、筋論から言えばシンジは悪くありません。
けれども、ここで瀕死の女の子をエヴァに乗せること、それは「大人の対応」あるいは「オトコの対応」なのでしょうか。
そうではない、というのが本作のテーマです。
迷いを断ち切り、恐怖を振り払い、エヴァに乗って出撃することをシンジが決断するところから物語は始まるのです。
エヴァのパイロットになった後も、シンジは多くの精神的な試練に直面します。
最初の使徒を倒した後、ミサトからは「あなたは人に褒められる立派なことをしたのよ」という言葉を貰うのですが、その翌日、シンジは同級生の鈴原トウジ(すずはら とうじ)から殴られます。
曰く、昨日の戦闘に巻き込まれた妹が負傷したから。
こんな不条理な扱いを受けてまで、どうしてエヴァに乗らなくちゃいけないんだろう。
命をかけて、痛みに耐えて頑張っているのに、上手くやって当たり前、上手くいかないと怒られるし、最悪、戦地で命を落とす。
物語の中盤、シンジはエヴァのパイロットという役割の重さに耐えかねて、自らその任を降りようとします。
するとどうでしょう、周囲はシンジを慰めるばかりか突き放すのです。
レイからは「じゃ、寝てたら」「さよなら」と言われ、ミサトもシンジを引き留めるどころか厳しい言葉を投げかけます。
最終的に、シンジは自分の意思でNERVへと戻り、エヴァのパイロットとしての運命を受け入れるのです。
本作のこういった流れは、シンジにとってあまりにも辛く、どうしようもなく理不尽なものに描かれているのですが、よく考えると、社会や人生の巧妙な比喩にもなっているのです。
実際、社会においてそれなりに責任のある仕事をするということは、エヴァに搭乗することに似ています。
痛みに耐えて頑張るのは当たり前、上手くいくのは当たり前で、失敗すると怒られるどころか相応のペナルティを喰らいます。
かといって、そういった役割から降りるのは社会から降りるのと同等のこと。
いい年なのに「責任」が少しもない仕事をしていたり、そもそも仕事を全くしていない人はどうにも社会から軽んじられます。
自分の存在価値のどうしようもない軽さに耐えかねて自殺する人も後を絶ちません。
(女性は出産や子育てを通じて社会的価値を獲得できることが多いからかもしれませんが)この傾向はいまでもなお男社会や男性の人生に深く暗い影を投げかけています。
真っ当に生きていくにはあまりにも不条理で辛く苦しい役割に立ち続け、そんな仕事をこなしていかなくてはならないのです。
その理不尽から逃げようものなら、誰も彼もに見放され、社会には居場所がなくなります。
降りかかる災厄は不条理かつ理不尽で、筋論から言えば、あなたが責任を負う必要なんてないし、逃げたって構わない。
けれども、そんな不条理や理不尽から逃げ続けるあなたって、いったい何の価値があるの、というわけです。
不条理や理不尽を乗り越えた経験、あるいは、乗り越え続ける日々を過ごしているということ。
そんな支柱がなければ、自分から見ても他人から見ても自己のアイデンティティを確立できない。
「それは不条理で理不尽だから、筋論から言えば、あなたが責任を負う必要なんてないし、逃げたって構わない」
この理屈に敢えて抗い、どんな理不尽や不条理に挑戦して乗り越えてきたか。
べつにやらなくたっていいことに、どれくらい熱量を持って取り組んできたか。
それが「あなた」という人物を形成しているし、少なくとも、他人からはその回数と品質を軸に評価を受けることになる。
そういった社会の当たり前が物凄い速度と質量でシンジ少年に投げかけられ、彼がその中で葛藤し、急速に大人になっていく物語なのです。
物語冒頭において、エヴァ登場を拒否するシンジは、瀕死の綾波レイが代理だということを聞いて決意を改めます。
ここで綾波レイを乗せるわけにはいかない、たとえ死ぬかもしれなくても自分が乗るしかない。
そんな「粋」や「漢気」の気配を直観的に感じ取り、実現に移すからこそ、シンジは物語の主人公たり得るのです。
もちろん、登場を拒否し続けた方が生存確率は上がります。
しかし、そうやって生存を得続けた先に何があるというのでしょうか。
誰の役にも立たず、誰からも欲されない自分。
生きている意味がない自分が、ただ心臓を動かしているだけという光景しかありません。
誰かのために何かをする、そのために自分の人生を削る。
意味のある人生は、逆説的ですが、誰かのために生を削ることからしか始まらない。
コメント