本作の感想記事でも、各キャラクターに人間性がなさすぎるという点を以前に指摘しているが、まさに、本作のキャラクターたちは「鬼殺隊」側に配置された駒、あるいは「鬼」側に配置された駒として、その立場に沿って動くという機械的な行動しか起こさない。
たとえば、竈門一家が鬼の一族であり、禰豆子が人間に殺されたのならば、炭治郎は躊躇いなく「殺人隊」の一員として人間を殺して回っただろう。
それどころか、 禰豆子が人間に殺されていたならば、炭治郎は間違いなく犯人へ復讐するために修行を重ね、犯人を躊躇いなく殺すに違いない。
社会現象レベルの大ヒット作になった本作を批判するのもおこがましいかもしれないが、そういったキャラクターの異常なほどの人間性欠如が本作の大きな欠点なのではないだろうか。
しかし、そういった人間性欠如の鬼殺隊こそが本作をヒットさせた理由であるとも私は考えている。
無限列車編における煉獄杏寿郎の自己犠牲的な行動を筆頭に、本作における「鬼殺隊」の面々は無条件に人類社会を守ってくれるあまりに都合の良いヒーローである。
武人としてのとんでもない強さと無謬な自己犠牲精神で自分を守ってくれる存在。
誰もが息苦しく、頼れる人間の少ない社会で、そういった「無私」のヒーロー像がヒットしたのかもしれない。
煉獄さんがかっこいい、という意見はよく目にするものの、煉獄さんのようになりたい、という意見は目にしない。よもや立派な人間に自分がなってやるという精神は消え失せ、煉獄さんのような、なんの葛藤もなく自動的に自分たちを守ってくれる存在がどこからか立ち現れてくることが渇望されているのかとも思う。
もし、煉獄さんが「正義」や「優しさ」について葛藤し、誰を傷つけ、誰を守るべきかについて迷いを持っている人間ならば自分や自分たちを守ってくれないかもしれないが、そういった葛藤とは縁遠く、立場上、機械的に全人類を守ってくれる人物だというのならば、それほど「信頼」できる人物はほかにいないだろう。
そんな「優しさ」の欠如した「鬼滅の刃」を読んでいると、対照的な作品として思い出されるのが「金色のガッシュ・ベル」という漫画である。
魔界の王様を決めるため、百人の魔物の子供たちが選ばれた人間のパートナーとタッグを組んでバトルロワイアルを行うという物語なのだが、主人公のガッシュ・ベルがこの陰惨なやり口での殺し合い(実際に殺すわけではないが)に疑問を持ち、こんな戦いを絶対にやめさせるような、「優しい王様」に自分はなるのだと決意する場面が重要な物語上の転換点となっている。
その場面以来、ガッシュとそのパートナーである清磨は、「優しい王様」を目指す魔物としての戦い方を採用するようになり、彼らの戦闘スタイルはその能力バトル的な派手さや戦術面における知的興奮に加え、不利や無理を顧みず、必ず正義側としての戦い方を貫くという魅力を帯びるようになる。
彼のそういった戦闘スタイルや言動に感化された他の魔物が味方になったり、敵ですら「正義」や「優しさ」について、あるいはどう生きるべきかについて葛藤し、ときにその行動を変えるという展開が物語を動かす原動力になっており、読者を感動させる素晴らしい場面や構成を生み出す根源ともなっているのが「金色のガッシュ・ベル」という作品の特徴だ。
個人的には非常に好みの作品であるため、是非、一読して頂き、あまりに無味乾燥な「鬼滅の刃」とは著しく対照的なその濃密な「正義」と「優しさ」の薫りに圧倒されて欲しい。
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