小説 「他人の顔」 安部公房 星2つ

他人の顔
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1. 他人の顔

ノーベル文学賞の有力候補だったと言われているほか、芥川賞、谷崎潤一郎賞、さらにはフランス最優秀外国文学賞を受賞するなど、国内外で評価が高かった小説家、安部公房の作品。「砂の女」「燃え尽きた地図」と並んで「失踪三部作」の一つに位置付けられています。「砂の女」は本ブログでもレビュー済み。名作です。

圧倒的感動に打ちのめされるという経験をさせてくれた「砂の女」と同系列の作品という評価に期待を寄せて読んだ本作。悪くはありませんでしたが、その高い期待に応えてくれたわけではありませんでした。

「砂の女」と同様、都市化・資本主義化していく社会の中で人々の自己認識や他者との関わり方が変化していくというテーマそのものは面白かったのですが、「砂の女」が見せてくれたような冒険的スリルやあっと驚く終盤のどんでん返しがなく、主人公の思弁的で哲学的なモノローグがあまりにも多すぎたという印象。もう少し「物語」としての起伏や展開による面白さがあれば良かったのにと思わされました。

2. あらすじ

主人公の「ぼく」は高分子化学研究所の所長代理として研究に取り組む日々を送っていた。

そんなある日、「ぼく」は実験中の事故により液体空気を浴びてしまい、重度のケロイド瘢痕を顔中に負ってしまう。

見るも不気味な顔となってしまった「ぼく」は包帯で顔を覆いながら生活を再開するものの、ただ元の顔を失ってしまったというばかりに研究所の職員たちや妻と疎遠になっていく。

生活の中で顔が果たしていた大きな役割を自覚した「僕」は、顔に装着するための精巧な仮面を作ることによって自己と社会との関係を修復しようと試みる。

その究極の目的は妻との性的な関係の回復だったのだが......。

3. 感想

極めて難解な文体のうえ、文章のほとんどが「ぼく」の独白で占められているため正直なところ非常に読みづらい小説です。しかし、純文学の大家が著した作品だけあって、随所にはっとさせられるような心理描写が見られます。

たとえば、主人公は当初、顔というものを失っても中身はれっきとした自分なのだから、他者の自分に対する態度は変わらないだろうと考えていました。しかし、実際には研究所職員たちがよそよそしい態度をとるようになり、妻にも行為を拒絶されます。

そう、顔というものはまさに、自分自身の中身にとっては全く意味のないものであるにも関わらず、他者との懸け橋となり、他者に見られることによって効果を発揮する、いわば自分自身に張りついた他者であることに主人公は気づきます。同時に、他者の顔というものはそこに現れる表情を見ることによって自分自身を知るきっかけとなる、まさに他者に貼りついた自分自身であるということにも主人公は思考を巡らせます。そして、顔に「ぽっかりと深い洞穴が口をあけた」 ような幻覚から脱するため、他者との懸け橋になる、「顔の穴をふさぐ栓」としての仮面をつくろうとするわけです。

そんな主人公は仮面を完成させ、これを被って外の世界を出歩くわけですが、ここで主人公は仮面の意外な効果を感じ取ります。待ち行く人々は主人公の仮面を主人公の顔として認識するわけですが、主人公にとっては文字通り仮の面にすぎず、いつだって仮面を脱ぎ捨てて素顔になることができるわけです。

つまり、主人公は永続的なアリバイを得たことに気づきます。そうなると、主人公は世間に対して不思議な優越感を覚えるのです。いま、自分だけは何を行っても咎められない(仮面の中という)自由な安全圏に潜んでいて、その圧倒的優位から真の自由なき人々を見下ろしているという感覚です。素顔には自己同一性が宿っており、素顔は自己の連続性を担保します。昨日の自分と今日の自分が同じだといえるのは、そして、他人から同じ人物だと認識されうるのは、まさに同じ素顔を自己(鏡を通じて)や他社に確認されるからです。

そのため、素顔で街を歩く人たちは明日の自分に迷惑をかけないために表情や行動に工夫を凝らさなければならない一方、仮面を被った主人公にはその制約がないわけです。

すると、主人公の思考はさらに細部へと沈殿していきます。この世が仮面であふれかえるようになれば、もはや国家による秩序管理は行き届かず、この世は完全犯罪者だらけの無法地帯になるのではないかと。仮面によっていつだって異なる人間に慣れるのならば、犯罪を犯した自己を仮面を着脱することによって置き去りにし続けることができるわけです。

珍妙な論理に見えますが、都市化し、人間関係が希薄化した現代社会(あるいは、本書が出版されて以来続く資本主義の内面化による人間の質的変容の驀進)においては、待ち行く人や隣人についてさえ、その人が昨日、どういう顔をしていたか分からないわけです。お互いに連続性を認知できない人間同士ばかりが同じ空間を行き交う社会ではある意味、常に仮面によるアリバイが成立しています。「あの人」が犯罪者なのか否か、私たちが簡単に峻別する術はもうありません。

そして、仮面が本当の自分自身(の素顔)とは異なる存在なのだと自覚した主人公は、逆説的に、無自覚的に拳銃を購入してしまうのです。他者に対して「自己」であること、「自己」に責任を持つことから解き放たれた瞬間、自分自身がどこまでも野蛮で狂暴になれることに主人公は戦慄します。巷を騒がせている「無敵の人」理論に近いかもしれません。養うべき家族も守るべきキャリアも趣味を謳歌するだけの金銭的余裕もない状態の人間は、もはや失うものがなく、どんな凶悪犯になることも恐れないという理論なのですが、やはりこれも、過去から続いている自分の顔、未来に続く自分の顔に責任を持つ必要がない状態から生じる現象でしょう。「無敵の人」にとって、自分の顔が将来の自分や親密な誰かにとって真人間の顔である必要がなくなってしまっているわけです。

しかしそう思うと、普段、私たちが被っている「素顔」というやつはなかなか厄介なもので、そこにはほとんど自己の内面が現れておらず、もっぱら他者に見せるためだけの外面が表れているわけです。顔は単に外表に存在するから外面というだけでなく、内面をその表情で覆い隠すものとして機能しているという意味でも外面になっています。明日もこの顔で「自分」を演じるからこそ、今日、他者からはこの顔を真人間の顔として覚えてもらわなければならないのです。

さて、主人公は仮面を被ることで再び妻との行為に成功するわけですが、ここでまさに、「仮面が本当の自分自身(の素顔)とは異なる存在なのだという自覚」が主人公を苦しめます。仮面によって犯された妻は、主人公にとって、仮面によって寝取られた妻も同然だったからです。仮面をつくることによって妻への姦淫に成功したくせに、仮面にあっさりと心を許した妻を許せない主人公。自分-仮面-妻の奇妙な三角関係に終止符をうつべく、主人公は自分が仮面を作り始めた経緯をノートに書き連ね、それを妻に見せます。そのノートの内容こそこの小説である、という体裁を本作品はとっています。

最終盤、ノートを読み終えた妻から、主人公は言葉による手痛い一撃を喰らい、それが主人公をある凄惨な行為へと駆り立てます。妻の言葉、そして主人公の行動はどちらも衝撃的なものですが、顔という外面と自分自身という内面が常時分離している、あるいは、分離させざるを得ない生活を送っている現代人こそはっとさせられる展開となっています。

4. 結論

長々と理屈を捏ねましたが、端的に言えば、このようなダラダラとした理屈の垂れ流しが好きな人は読むべきでしょうし、そうでないならば避けるべき小説です。「顔」や「仮面」について論じる主人公の独白が大半を占める作品であり、エンターテイメント性は皆無に近くなっております。難解な純文学好きのあなたに、とだけ言っておきましょう。

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