1981年のベストセラーといえば田中康夫の「なんとなく、クリスタル」でしょう。
そこで描かれたのは、ブランド品を身に着け、お洒落な飲食店で食事をするなどの消費行動を通じて自己顕示欲を発散する若者たちの姿。
その様子を赤裸々に描き出したことで文藝賞を受賞し、ミリオンセラー作品となりました。
堕落した消費ばかりに感けて保守的な倫理観を失い、創造性・生産性に欠ける行動ばかりをしている。
そんな若者たちの在り方には批判も多く寄せられたようですが、当時の若者たちのほうが「何者かになる」という意味では現代の若者よりも幸福を享受できていたのだと個人的には思います。
誰もが名前を知っているブランド品を身に纏い、雑誌を読み込んで流行を追いかけてさえいれば、自分のアイデンティティが保たれ、周囲からも承認される。
自尊心や承認欲求を比較的保ちやすい社会だったのだな。
それが1981年の若者社会に対する私の率直な感想です。
時代の流行というものは移り変わるものであり、現代の若者には脱物質主義的な価値観が横行していて、モノ消費よりコト消費、という言葉も散見されます。
けれども、コト消費などというのはマーケティングのためのまやかし単語であり、やはり若者は消費離れをしていると思います。
というのも、現代社会において、消費は自己のアイデンティティを主張するための鍵としては不十分だからです。
それでは、現代の若者たちは何を自己のアイデンティティとしている、あるいは、したいと願っているのでしょうか。
端的に言えば、それは「創造」でしょう。
ひとたびSNSや動画投稿サイトを覗けば、多くのクリエイターたちが音楽や絵や動画を制作して人々を楽しませています。
起業家のような「ビジネス」を創造するインフルエンサーも跋扈している状態。
なにより、ゲーム実況のようなカテゴリでお金を稼いでいる人々が存在しているということが象徴的でしょう。
ゲームの遊び方や楽しみ方、つまり、消費の方法にさえ創造的で魅力的な方法とそうでない方法があり、よりクリエイティブな遊び方(※)を実行している人が脚光を浴びているのです。
※縛りプレイやRTAのようなゲームの方法そのものでもよいし、ゲーム内の出来事に対する感情表現のようなレスポンスの面白さでもよい。
ファッションの流行でさえ、もはや少数のファッション雑誌に独占されているわけではありません。
YouTubeやインスタグラムでより良い着こなしを「創造」している人々が山のように存在しています。
創造者がいたるとことに存在していることが容易に認知できてしまう社会において、単にそれらを消費しているだけで人々は自尊心や承認欲求を保つことができるのでしょうか。
きっと容易ではないでしょう。
何も創造できていない自分は何者でもない、と感じても不思議ではありません。
創造的な行動によりSNSのフォロワーを増やせない自分を惨めに感じることも少なくないでしょう。
しかし、世の中において、SNSや動画投稿サイトで活躍しているような創造者たちは実のところ極少数に過ぎません。
目立つからこそ、触れやすいからこそ、その人数が過大に認知されるのです。
多くの若者は「創造者」になることができません。
これは、お金と時間さえあれば実現できる「消費」との大きな違いです。
消費は比較的容易に実現できてしまうので、消費をやりきる、ということができます。
つまり、心ゆくまで消費をしてみて、それに飽きたら、消費によって自分を着飾る必要なんてないのだと理解できたら、若者を卒業することができました。
しかし、創造は違います。
創造者になれないまま、輝ける創造者たちと自分自身との差異に苦しみ続けたまま、いつまでも満足や飽和を感じることができないまま、ずるずると劣等感を覚え続けてしまうかもしれません。
若者が何かをこころゆくまでやりきって、そうして大人になっていく。
その「何か」は一見、消費より創造の方が良いように思えます。
しかし、もしかすると消費の方がマシだったのかもしれないと思いませんか。
一部のクリエイターにばかりスポットライトが当たり、その人たちが自尊心や承認を総取りしていく社会よりも、大衆消費者という集団にスポットライトが当たり、自尊心や承認が薄く広く配られる社会の方が、多数派にとって、凡人にとってマシだった。
創造者でなければ「何者か」ではない社会の息苦しさをを想うと、こんな思考がふと脳裏を横切ります。
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