第4章は行動経済学。マーケティングでの応用も盛んで、書店に関連本が平積みされていることも多いように思います。デフォルトの状態を工夫したり、物事の目に付きやすさに強弱をつけることで、自由を阻害しないようにしつつも人々をより良い方向に誘導する手法はどこか「温かみ」も感じますし、ワイドショーや情報バラエティのネタとしても有用なようで色々なところで紹介されていますよね。マーケティングでは「並盛・中盛・大盛」を用意するという話が有名でしょうか。「並盛・大盛」だけだと多くの人が「並盛」を選ぶのに対して、三択だと一定数が並盛から中盛に流れるそうです。決して合理的(=状況を的確に判断し、常に自分の選好を過不足なく満たすような行動をとる)ではない人間の側面に注目しようという、「エコノミックアニマル」に対する鋭い問いかけになっていて、いま一番、経済学の伝統的な考え方を揺るがしているといえるでしょう。100円を得るのと100円を失うのとでは、100円を得る喜びよりも100円を失う悲しみの方が大きい、などは入門レベルの教科書さえも揺さぶっているのだと感覚的には思います。取引における、完全情報なら完全に合理的な行動という仮想も、嘘だと思いつつも「致し方ない」面があったのかもしれませんが、「ヒューリスティック」の登場はその仮想を代替できるような可能性を秘めていると感じます。また、Aさんに100ドル渡して、そのうち幾らでもBさんに与えていいという条件(0.1ドルでもペナルティはない)のゲームをしたとき、多くの人が折半に近い金額を与えるというのも面白いところ。「助け合う本能」や「宗教的道徳観」といった、私たちの身体や社会に染みついてもはや前提とせざるを得ない行動規範がようやく経済学の分野にも浸透しつつあるのです。個人的には最後の100ドルを分け合う話が一番好きですね。
第5章は経済学における実験の話。その特性から長らく「実験」は難しいと思われてきた経済学(というより社会科学全般)。人間が対象である以上、「同じ条件を揃える」や「再現性」の観点は確かに自然科学よりもハードルが高いのでしょう。それでも、様々な方法で実験を行い、有用な成果を挙げているということがこの章では紹介されます。本書で取り上げられている全ての実験に言及するのは非現実的ですが、敢えて一つ取り上げるのならば、特に統計学が興隆している昨今、「ランダム化比較実験」は医学や教育の分野でも実務に取り入れられるなど最注目の実験手法でしょう。今後、「ランダム化比較実験で実証済み」の文言を見ることが多くなるのではないでしょうか。その時、どのような実験手法なのかを知っておけば、その真贋について見抜くのを手助けしてくれるかもしれません。
第6章は「制度」の経済学についての解説。これまで「市場」にばかり注目してきた経済学に対し、市場を取り巻く「制度」が市場における均衡を強く左右しているというアプローチから経済を見ていくものです。もちろん、これまでの経済学も様々な経済政策や経済的な規制にはそこそこ目を配っていたと思われますが、この「制度」経済学は、例えば契約を巡る法制度や裁判のあり方、私有財産の保護、企業統治の形態、企業同士の関係などに着目します。また、国によって自動車の右側通行と左側通行が分かれている現状など、制度の収斂に差があることにも注目し、均衡点が一つにならず、複数均衡点間の移動が難しい状況などを、たった一つの最終的な均衡を想定してきた経済学に対して投げかけます。行動経済学では心理学を、そしてこの「制度」の経済学では政治学や社会学が取り入れられつつあるといえ、経済学が新たな総合格闘技になっていく様子が見てとれます。
第7章は経済史的な観点から見た経済学の理論が語られます。個人的に本書で最も衝撃を受けた、「通貨は交換手段として始まったわけではない」という説への詳しい言及があるのもこの章で、確かに、「通貨は交換手段として始まった」という考え方は自然に見えてどこか過度に演繹的で、「現代社会に生まれたバイアス」にまみれていたのかもしれないと思わされます。もちろん、経済史と経済理論を語るうえでの定番的事例も手厚く紹介されていて、キーボードのQWERTY配置や、マグリブ商人とジェノヴァ商人、マルサスの罠といったオールスター事例が並びます。最近の出来事ではピケティのr>gも拾っており、ピケティの資産や所得の定義はこれまでの経済学からすれば新奇なものだとしつつもむやみに批難することなく、伝統的な立場に無意味な固執をしない著者の物言いには好感が持てますね。もし、歴史や現実を説明するのに新しい定義が適切ならば、定義の方を変更し、その定義のもとで経済学をもう一度作り直すべきなのです。
また、やや話がそれますが、AIやビッグデータの台頭が「経験>理論」の世界を勃興させてきているように個人的には思います。AIの将棋ソフトが打つ一手は、明確な理論に裏打ちされたものではなく、無限に近い回数のシミュレーションの末、最も勝つ確率が高かった一手を選んでいるわけで、「なぜその一手により勝つ確率が高まるのか」という明確な論理的繋がりをスキップして(少なくとも理論に拠って考える人間より)正解に近い手筋を選べているのです。「理解していること」そのものの価値が揺らぎ始め、「データの量・質とシミュレーション手法が正しいか」に全てが収まってしまうような、そんな時代が来はじめているのではないでしょうか。何かを理解しようとするのが好きな人間としては悲しいですが、そういった時代をまた理解していきたいですね。
本書の話に戻ると、単独の章立てがあるわけではないのですが、著者は経済学の「遂行性」にたびたび触れています。それは、「経済学(者)がこう言っている」という言説そのものが政府の政策や人々の行動に影響を与えていることに着目すべきではないかという意図であると思います。「経済学」なき真の「自然状態」をもはや経済学は観測できていないのではないか、あるいは、そういった「遂行性」も含めて経済学全体を見直すべきではないか、明言はされていませんが、そんなことを言いたいのだと思います。
4. 結論
全体として、20世紀までの経済学に新しい息吹を与えつつある、まさに「現代経済学」をコンパクトに総覧できる良書。本書に出てくるキーワードや概念、設例などを頭に入れておけば、経済学の最先端書籍に触れたりしても内容理解が容易になるでしょうし、経済学に詳しい人との会話でも素早く内容を飲み込めるようになると思います。一風変わった外国の政策について考えるときも、その背景を推測するガイドになってくれるかもしれません。経済学の最新版地図として持っておくと心強いですね。
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