加えて、結局のところ有権者は「イエス・ノー」でしか意思表示ができないというところにもリップマンは重点を置きます。選好に応じた細やかな順序づけによる意思表明を人々にさせない制度になっている以上、政治家はますます細かく具体的な説明よりも印象論で支持を引き付けようとします。イエスの中での濃淡、ノーの中での濃淡は勝敗に影響を与えませんので、あくまで中間で戸惑っている人々、論点が身近な問題ではないために自らの立場表明が困難な人々に訴えかけるのが最善の戦術となるからです。
また、政治家だけでなく新聞もそうです。もちろん、新聞には「地域の活字媒体」としての役割があり、その類の紙面には人々の知覚がフル活用されるような記事が載ります。地域のことについて地域の人々を騙すことは難しいからです。しかし、国際的な事象とあればそういうわけにはいきません。むしろ、細かな注釈や前提条件を付けるほど簡潔な理解を妨げるため、正確性を歪めててでも記事を単純化するインセンティブが働きます。しかも、人々の好感を得てスムーズに内容を把握してもらえるように、人々のステレオタイプに沿った形での単純化がなされます。
こういった事象こそ、つまり情報伝達と情報咀嚼双方の歪みこそ、民主制が上手く機能するはずだと考えていた人々が想定していなかったことだとリップマンは説きます。
リップマンはインターネットの存在を知ることなく亡くなりましたが、インターネットが情報伝達の主流になっている社会においてこの傾向はますます強まっているように思われ、リップマンの慧眼は今日においてますます輝きを増しているといえるでしょう。
本書ではこういった現象への対策として、抽象的な言い争いを具体的な統計でもって言い換える情報機関の創設が提案されています。「労働者は搾取されている」という訴えに対して、情報機関はカテゴリー別の労働者賃金表を示します。そして、訴えた人は主張をこう言い換えるのです「AグループとCグループは搾取されている」と。そうやって問題を本質に近づけていくような機関です。
なんとなくですが、これは今日におけるフェイクニュースVSファクトチェックに近いような感慨を抱かせます。単純化され理解しやすく、センセーショナルで感情移入しやすいものの、あまりに大雑把であったり嘘が入っている言説に対し、その誤りを指摘して精緻な事実を提供するわけです。
しかし、それが成功しているか否かは皆様のよく知っている通りでしょう。ファクトチェックが様々な組織により行われ、統計情報のweb公開により1次データにも簡単にアクセスできるようになった今日でさえ、人はフェイクの方を信じがちです。1次データで確認するような手間をかけないのはもちろん、本当の事実が目の前で示されてもそれを信じようとしない人さえ(政治的に影響力がある人数規模で)存在しているのです。事実を示すことで抽象的印象論を具体的議論に置き換える機関さえあればなんとかなる、そんなリップマンの夢は打ち砕かれつつあります。
5. 結論
リップマンの叡智の深さに感動しつつも、情報化社会がその上を軽やかに飛び越えてしまう空しさにも思いを馳せられる一冊。散漫な文体と小難しい文章が疵ですが、興味があればこの「ジャーナリズムの古典」を手に取ってみてはいかがでしょうか。
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