1. 憲法Ⅰ 人権
法学部や経済学部を卒業した方々にはお馴染み、社会科学・人文科学系学術出版社である有斐閣。
基本的には小難しい本ばかりを出版している会社なのですが、「学問と高校までの知識とがどう結びつくのかを理解しながら,じっくり思考を深めるためにまず手にとってほしい1冊」を刊行するレーベルとして「有斐閣ストゥデイア」が2013年に立ち上がっています。アカデミックの正統派に立ちながらも、いわゆる大学で教科書になっているような「~学入門」のような本よりもさらに易しい筆致で書かれた本が多く、私もよくお世話になっています。
そんな「有斐閣ストゥデイア」シリーズから刊行された憲法学についての入門書が本書です。憲法学としての正統性を失わず(極論が書かれた俗本ではなく)、法律系の試験対策本でもなく、それでいて過度に重箱の隅をつつくような専門的議論ばかりでもない憲法の入門書は正直なところ「ない」というのがかつての結論だったところ、ついにその位置を射止める本が出てきたなというのが本書への評価となります。まずはこの本から、と胸を張って言える入門本になっております。
2. 目次
第1編 人権の意義と保障
第1章 人権の保障
第2章 人権保障の限界
第3章 幸福追求権
第4章 法の下の平等
第2編 個別の人権
第1章 精神的自由
第2章 経済的権利
第3章 刑事的手続きに関する諸権利と人身の自由
第4章 プライバシー権
第5章 社会権
第6章 参政権・請願権
第7章 国務請求権
第8章 人権保障の諸問題
3. 感想
難しい部分をあまりに省きすぎたゆえに何が言いたいのかよく分からなくなっている「やさしい憲法学」のような題名の本だったり、あるいは、冒頭でも少し触れた、極端な思想や誤った事実認識に基づいて展開される俗論的憲法本が世間に溢れているのは書店などに足を運ぶ方々には周知のことかと思います。一方で、そういった書籍とは距離を置き、学術的で学問の王道を行くような本格的な憲法学について学びたいと思っていらっしゃる人も多いのではないでしょうか。
しかし、本格的な憲法学の本といってまずたどり着くのは芦部信喜元東大教授(故人)が著した「憲法」、いわゆる「芦部憲法」となるのではないでしょうか。
日本における憲法解釈の基礎を築き上げた大家が著しただけあって非常に有用で面白く、読むたびに発見がある本なのですが、これはいわゆる「総まとめ本」として憲法学の骨格が書いてあるだけで、司法試験受験者向けの学習サイトにさえ「行間を読む必要がある」と指摘されるくらいの概論本なのです。つまり、「芦部憲法」を読む前の段階である程度の憲法学リテラシーのようなものを身に着けていなければ「芦部憲法」をすいすいと読んでいくことができないわけで、それでは、何を「芦部憲法」の前に読めばいいのかという話になります。
あえて例えるならば、四則演算を小学1年生で習ったあと、小学2、3年生になれば「足す」「引く」という概念は特段の注釈なく授業で用いられるようになりますよね。それ以降の学習でも、より上位の概念を扱う問題を学習する際にはそのとき焦点があたっている概念未満のレベルの概念については既知として授業が進む感じと似ています。算数・数学では正統派の教科書と優しい語り口で教師が段階的に物事を教えてくれますが(地域格差の拡大や教員の人材不足によりそうでない学校が増えてしまっている側面もありましょうが)、こと憲法学においては高校卒業程度の知識と知性を持った(あるいは大学で法学以外を専攻し卒業する程度の知識と知性を持った)人々にとってファーストステップとなるべき良本が存在せず、結果として易し過ぎる本や俗本が跋扈し、まともな人々にとって意味不明な分野になってしまっているのだと思います。
やや話が逸れますが、(高校までの知識や思考体系しか持たないことが前提であるはずの)大学一年生の「憲法」の授業ですら「芦部憲法」が教科書として使われるのですから、憲法学を志す学生や少なくとも憲法学に親しみを持ちそれなりに理解のある学生が増えないのは必然かと思います。憲法学が正直なところ変人の学問に堕ちていってしまっているのもここに少なからず原因があるのでしょう(憲法の「先生方」は「変人の学問」と呼ばれて喜びそうではありますが。しかし、そんなことでは憲法学の重要性が世間に認識されることもないでしょうし、もっと射程を広くとれば文系学問不要論に拍車をかけるだけでしょう。文系学問不要論を唱える人々を冷笑する態度がサイレントマジョリティーにどう見られているかを意識するべきです)。
そして、こういった文脈があるからこそ、本書は画期的な憲法入門本となっております。
(憲法学的な行間の読みができない)常人にとっても普通に意味が通る文章で書かれ、なおかつ重箱の隅をつつくような議論は大胆に省略し、 判例と通説(学会において正統派とされている解釈)を中心に説明することで憲法学の重要部分(70%くらい)を上手く抽出しています。実際に憲法が裁判所によって個別の事例に対しどのように適用されているか、つまり憲法の現実的な運用に焦点を当てることでわたしたちの現実を動かしている一つの制度としての憲法という側面が炙りだされ、意義や実感を持って憲法学の入り口に立てるようになっているのがいいですね。
また、本書で直接言及されないのが惜しいところですが、なぜ憲法を「解釈」する必要があるのか(ほぼイコールなぜ憲法学が存在する必要があるのか)という問いに対する回答を本書全体としてできているのではないかと本書を読んでいて感じました。
憲法はその条文や前文で様々なことを国家に対して義務付けたり推奨したり禁止したりしているのですが、あらゆる事象に対応し、何十年も使っていくという制約から書きぶりは非常に抽象的になっております。そのため、個別の事件や訴えに対し、裁判所は事例の特性や世の中の流れ(価値観の変遷や技術革新)を汲み取りつつ、憲法の抽象的な言い回しを具体性のある言葉(命令)に変換して国家や個人に指示する必要があるわけです。
しかしながら、憲法はあらゆる事象にバランスよく対応しようとするあまり、解釈の幅が広くとれるようになっているうえ、一見、矛盾している(あるいはどの条文のどの文言を重視するかで個別事例への判断につき結論が変わってしまうような)表現があります。しかし、同じような事件を別々に裁判所に持ち込んだとき、双方で別々の解釈や条文参照がなされ、別々の結論が出てしまえば、政府もどのような法律をつくったらよいか(どのように改正したらよいか)分からず、各個人もどのように行動すればよいか分からなくなってしまいます。そこで、 全ての条文を意味あるものとして受け止め、全ての条文に対して無矛盾な整合性のある意味の捉え方(解釈)が予め用意されている必要があり、それがあることでダブルスタンダードが起きず、一貫した対応を様々な個別事例に対して行うことが可能になるわけです。 憲法事例ではないですが、諫早湾干拓事業関連の裁判などはこれに失敗しているといえるでしょう。このような事態にならないよう、一貫無矛盾かつ体系的に憲法を捉える思考枠組み・論理の束が求められ、それを編み出していくのが憲法学だと言えます。
しかも、 一貫無矛盾かつ体系的なだけでは十分ではありません。(日本国憲法に限らず)憲法にはそれを制定した意図があり、このような国家にしていかなければならないという理念がそこに含まれています(誰もそう思わなければ憲法など最初からつくられないでしょうし、そこにこめられた意図や理念が妥当であると、少なくとも制憲時点でそれなりの数の人間に思われなければ公式に制定されないでしょう)。これらの理念、つまり、「憲法がやりたいと思っていること」を制定の過程や前文を含む憲法全体の書きぶりなどから読み取り、それが解釈に反映されていて初めてその憲法の特徴を反映した法律づくりや行政活動が実現するわけです。一貫無矛盾かつ体系的でさえあれば中身や結論の質はどうでもいい、というのであれば憲法を制定する意味がないですよね。
4. 結論
条文を紹介し、まず判例を紹介し、それに対する解説と考察がなされ、最後に通説(と時々、通説と並び立つ有力説)が紹介されて判例との違い(=判例批判)が説明されるというサイクルが簡潔に回され、すらすらと読み進めることができます。まさに正統派にして本格派の良き入門本といえるでしょう。オススメです。
なお、本書のタイトルにある通り、本書のカバー範囲は憲法のうち「人権」の部分だけです。「統治機構」編の出版が楽しみです(憲法界隈では憲法の条文や役割を「人権」について記述している部分と「統治機構」について記述している部分に分けて整理することが一般的のようです。後者は例えば、国会や内閣の設置や地方自治体の役割について記述されている部分です)。
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