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教養書 「市民政府論」 ジョン・ロック 星3つ

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市民政府論
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1. 市民政府論

日本国憲法が基本的人権の擁護を柱としていること、政府が存在し様々な活動を通じて国民生活を支えていること。これらは中学校の社会の教科書に載っている内容ではありますが、このような言説の中では基本的人権の存在や政府の存在が自明になっており、なぜ、基本的人権は存在する(べきな)のか、なぜ(民主的な)政府が存在する(べきな)のかといったことはなかなか語られません。

こういった発想は優等生的ではないのかもしれませんが、なぜ基本的人権や民主的な政府の存在が自明に良いとされているのか、疑問に思ったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

本書「市民政府論」はそんな疑問に答える著作の一つとなっております。基本的人権や民主的な政府が当たり前ではなかった時代、その存在を論理的に正当化しようとした人々がおりまして、その代表格の一人が本書の著者であるジョン・ロックになります。

なお、「市民政府論」はロックの著作である「統治二論」のうち後編にあたります。現在は岩波文庫から前後編が収録された新訳が出版されておりますので、そちらを手に取るのがいいかもしれません。

2. 感想

冒頭に述べた通り、「市民政府論」は「統治二論」の後編にあたります。本記事で後編しか紹介しないのには理由がありまして、前編での議論はそれほど現代の読者の関心に合っていないと思われるからです。「統治二論」の出版当時、イギリスは絶対王政の時代でありました。そして、その絶対王政を擁護するための理論として「王権神授説」というトンデモ理論が持ち出されていたのです。これは、人類の始祖であるアダムには神からこの世を統治する権限を与えられており、国王はその正統後継者だからこそ絶対的な権力を持っているという理論です。ロックは前編においてこの理論の論破を試みております。ただ、現代社会において「王権神授説」を心から信じている人などいないでしょうし、ましてそれに対する精緻な反論に関心があるという人もなかなかいないでしょう。

そういった事情から、「王権神授説」がダメなのは分かったとして、じゃあ、王様が全権を握ってこの世を統治する以外の方法としていったいどういう方法があるのか、という疑問への答えとして書かれ、現代の西側先進国やそれを模倣した日本国憲法のもとにもなっている「市民政府論」をレビューしていこうというわけです。

そんな「市民政府論」ですが、ロックはまず政府(あらゆる代替的共同体含む)が一切存在しない状態を自然状態と呼び、そこから議論を始めます。自然状態では政府が一切存在せず、当然、法律やそれを執行する機関のようなものも存在しないので、各個人は自由奔放に生きております。しかし、そのような社会では他者への攻撃が頻繁に行われることが想像に難くありません。このとき、攻撃を受けた側は無抵抗に攻撃され続け、奪われ続けなければならないのでしょうか。「いいや違う」と誰もが思うはずです。そう、たとえ自然状態の中であっても、自分自身を守る権利、自分の明白な所有物である自分自身の身体を守る権利が個人個人に与えられていることは誰もが納得することでしょう。つまり、自然状態という思考実験から「自分自身の身体を守る権利」が万民に自ずから付与されていることをロックは導き出すのです。

さて、こうして基本的人権の原初的な概念が生まれてくるわけですが、果たして、自分が所有しているもの、自分にとって守る権利があるものは自分自身の身体だけなのでしょうか。ここで、ロックは所有の概念を拡大します。人間は自分の身体を使って物の形を変化させ、そこに価値を加えることができる、つまり、土を耕して田畑としそこから収穫物を得たり、木や石を加工して道具をつくることができます。このように、自らの身体の力(=労働力)を自然物に付与してその状態を変化させたものは疑似的にその人の身体が注入されたものとして見ていいのではないか、という論理をロックは展開します(この背景には自然物を人為的に変化させてこの世を良くしていくことが人類に課せられた使命であるというキリスト教的価値観も存在しています)。労働を通じて自分自身の所有権の及ぶ範囲を拡大できるという論理を通じ、ロックは個人個人がつくりだした財産を守る権利である財産権も正当化します。

このように、所有権が存在することをロックは論証するわけですが、議論はどにようにすればその所有権が守られるのかという点に波及していきます。所有権が侵害されそうな場合や侵害された場合、侵害者に対して何らかの抑止力や罰則を加えることは正当化されますが、なにをもって侵害されたとするべきかについては個々人で解釈が異なってくるであろうということ、特に、人々は常に自分にとって都合のいい解釈をしがちだろうということは誰もが危惧するところでしょう。誰も彼もが裁判官兼執行人になって自分の権利を守ろうとしてしまっては、それは戦争状態と同じで、かえって碌に所有権なんて守られまいとロックは語ります。そこで、侵害者に対して個人的に所有権侵害を判定して罰則を加える権利を社会の成員一人一人が自主的に放棄し、その権利を共同体に委ねることによってはじめてやっていいことと悪いことの一意で厳密な判定が可能になり、それぞれの所有権が守られる、つまり、権利擁護のための政府が必要であるとロックは説くのです。

そして、その政府においては、なにが侵害行為なのか、個々の侵害行為についてどのような刑罰を加えるのかは当然に権利を差し出している市民たち(orその代表)によって決定されるべき(市民政府)であり、その執行を命じるのも個々の市民ではなく政府そのものとなります。それこそが政府の立法権・執行権の根拠であるというのです。また、その政府の決定は常に多数者の意見に依拠すべきであるともロックは言います。多数者の意見に少数者が従わずに勝手なことをやり始めるのを許容しては上述した所有権を守ることができず、また、少数者が権力を握って多数者がそれに従わなければならないという状態は多数者の離反によって長くは続かないからというのがその理由です(少数者の擁護が強調される現代社会ではやや受け入れがたい理論かもしれませんが、当時は一部の王侯貴族ではなく多数派市民こそが権力を握るべきという理論こそが新鮮で斬新で庶民的だったのです)。

ただし、政府がこのような経緯をもって誕生しており、その経緯に正当化されているか以上、(たとえ多数派の意思であっても)政府にはできないことがあるとロックはいいます。それはまず、個々の市民の所有権を守るという公共の福祉を逸脱するような立法や執行を行うこと、市民を滅ぼし、隷属させ、故意に疲弊させるような立法や執行をする権利を政府はもっていないのです。また、政府は法の解釈と執行において個々人の恣意的判断を回避するためにつくられたのだから、当然に「恣意的判断を回避するよう努力する」という義務を負っており、そのために、法は恒常的で公布されていなければならず、公知の授権された裁判官を用意する必要があります。日ごとに法律を変えてよかったり、法律の存在を隠してよかったり、裁判官を裁判の都度変えてよいとなれば、いくらでも恣意的な運用の余地が残ってしまうからです。加えて、政府は同意なしに何人の所有をも奪い取ることはできません。この点は、所有権保護を起点するロックの論には合致いたしますが、政府の役割が拡大している現代社会においてはなかなか実現が難しい点かもしれませんね。

それでは、政府がこのような「やってはいけないこと」をやり始めたら、つまり、市民から授権した範囲を逸脱し、恣意的な政治により市民が元来持っていた権利をも侵害し始めたとき、市民はどうすればよいのでしょうか。そのときは、政府に抵抗し、解体し、新しい政府を樹立する抵抗権が市民にはあるとロックは説きます。政府というものはあくまでも市民の信託によって成立しており、その信託が破られたときには政府を打倒してよい。(王権によって樹立されている政府とは異なり)まさに市民による政府だというわけです。

自然状態という思考実験から人々の守られるべき権利(生存権・財産権)を導き出し、それを達成するための機関が政府だと定義することで、政府権力の範囲をも論理的に限定する。まさに、「人権」を出発させ、「政府を縛る」憲法という考えのもとになったのだと理解するのにはうってつけの理論がこの「市民政府論」には載っています。今回のレビューでは人権の出発と政府の権限に絞って紹介いたしましたが、これ以外にも当時の文脈に配慮した様々な議論が展開されており、まさに統治体制における転回点となった本と言えるでしょう。300年以上前の本ということで、現代社会における喫緊の生々しい問題について考えるヒントとはなりませんが、自由主義のうち所有権を重視する立場の思想であったり、抵抗権を根拠にアメリカで銃規制が進まない問題などへの理解も深まると思います。憲法による統治の成り立ちや政治哲学に興味のある方は手に取るべき古典でしょう。

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